筑摩 (重巡洋艦)
筑摩(ちくま)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦[4]。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の2番艦[5]。 その艦名は、筑摩川(千曲川、信濃川の上流部)に因んで命名された[6][7]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては筑摩型防護巡洋艦1番艦筑摩[8]に続いて2隻目[7]。 筑摩は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など太平洋戦争の重要な戦闘に参加し、レイテ沖海戦で沈没した[9]。艦内神社は筑摩神社である。艦名は海上自衛隊の護衛艦に継承された。
筑摩 | |
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基本情報 | |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦(実際は重巡洋艦) |
級名 | 利根型 |
艦歴 | |
発注 | (②計画) |
起工 | 1935年10月1日 |
進水 | 1938年3月19日 |
竣工 | 1939年5月20日 |
最期 | 1944年10月25日レイテ沖海戦にて沈没 |
除籍 | 1945年4月20日 |
要目(注[1]) | |
基準排水量 | 11,213トン |
公試排水量 | 13,320トン |
全長 | 201.6 m |
最大幅 | 19.4 m |
吃水 | 6.23 m (公試) |
主缶 | ロ号艦本式缶8基 |
主機 | 艦本式タービン4基4軸 |
出力 | 152,915馬力(全力公試成績) |
速力 |
35.44ノット(全力公試) 35.74ノット (過負荷全力) |
燃料 | 2,690トン |
航続距離 | 18ノットで8,000海里 (計画) |
乗員 | 竣工時定員869名[2] |
兵装 |
20.3cm連装砲4基8門 12.7cm連装高角砲4基8門 25mm連装機銃6基12挺 13mm連装機銃2基4挺 61cm3連装魚雷発射管4基 |
装甲 | 舷側:145mm 甲板:35mm |
��載機 |
計画:水上機6機 定数(-1942年6月25日):零式水偵3機、九五式水偵2機[3] 定数(1942年6月25日-):零式水偵5機[3] (カタパルト2基) |
艦歴
編集太平洋戦争まで
編集利根型2隻(利根、筑摩)はいずれも三菱重工業長崎造船所にて建造された[10][11]。当初は15.5cm三連装砲塔を搭載予定であった[11]。軍縮条約脱退により20cm連装砲塔4基を前甲板に集中させた航空巡洋艦となったが[12]、書類上は二等巡洋艦(軽巡洋艦)である[5][13]。
筑摩は1935年(昭和10年)9月28日に命名[4][14]。同日附で艦艇類別等級表に登録された[15]。10月1日、筑摩は起工[11][16]。
1938年(昭和13年)3月19日、進水[17][18]。 5月20日、筑摩は就役し、利根と共に第六戦隊を編制した[19][11]。横須賀鎮守府籍[20]。7月下旬、第六戦隊は舞鶴港に初入港し、舞鶴に帰港するときは艦載機を栗田水上機基地に預けることになった[21]。
11月15日、利根、筑摩で第八戦隊が編制された。 12月1日、利根と筑摩は舞鶴鎮守府に転籍した[20]。舞鶴鎮守府には両艦より大きな艦艇が所属しておらず、両艦は舞鶴戦艦とも呼ばれた[22]。
1940年(昭和15年)3月下旬より中国大陸沿岸での作戦に従事した[20]。 10月11日、利根と筑摩は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した[23]。筑摩は計画上は水上偵察機6機搭載可能だったが(筑摩での実験では三座水偵4機、複座水偵4機、計8機搭載)[24]、搭乗員の不足と機数の不足から、水上偵察機4隻(二座2機、三座2機)に制限された[25]。
太平洋戦争緒戦
編集太平洋戦争初期は第一航空艦隊(通称:南雲機動部隊)に属し、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃に参加[26]。第一次攻撃隊に先駆けて筑摩から零式水上偵察機(福岡政治飛行兵曹長)が発進してオアフ島周辺を偵察、午前3時8分「敵艦隊真珠湾ニ在リ、真珠湾上空雲高1700米、雲量七、0308」「真珠湾在泊艦ハ戦艦10、甲巡1、乙巡1」「真珠湾上空、風向80度、風速14米」を発信した[27]。日本への帰途中、ウェーク島第二次攻略戦に参加した[28]。筑摩艦載機は偵察と対潜警戒を行い、1機が大破した[29]。12月29日、日本本土の柱島泊地に帰投した[20]。
1942年(昭和17年)1月10日、第二航空戦隊と共に日本を出撃し15日にトラック泊地に着いた[20]。同月24日のアンボン空襲や2月19日のポートダーウィン空襲を支援した[30]。3月1日、クリスマス島付近で米駆逐艦エドサルと遭遇し、戦艦比叡、戦艦霧島、利根と共に攻撃したが砲撃が命中せず[31]、空母赤城・蒼龍から発進した九九式艦上爆撃機計17機が命中弾と至近弾を与えた後、ようやく撃沈した[32][31]。約1時間半の砲戦で36cm砲弾297発、20cm砲弾844発を消費した[33][31]。
同日、ジャワ島南南西200浬地点でオランダの貨物船メイモットヨート(モッドヨカード)と遭遇した[34]。駆逐艦4隻(有明、夕暮、不知火、磯風)が砲撃したが、撃沈できなかった[35][36]。筑摩は独断で空母赤城の左舷後方から砲撃し、20cm砲弾が赤城の直上を越えたため[37]、南雲忠一長官が砲撃の中止命令を送ったが、砲撃が命中しメイモットヨートを撃沈した[37]。
3月4日、ジャバ島南岸チラチャップに接近、オランダの商船エンガノ(1万5000t)を駆逐艦浦風と共に撃沈した[33][38]。筑摩の砲弾は徹甲弾で、エンガノの船体に穴を開けたが沈没せず、最後は魚雷1本を使用した[39][40][41]。
その後も筑摩は機動部隊と共に転戦した。4月、インド洋に進出し4月5-9日のセイロン沖海戦に参加、4月23日に舞鶴着[20][42]。舞鶴海軍工廠で各部の修理を行う[43][44][45]。5月16日、舞鶴出港[20]。柱島泊地へ移動する[46]。
アメリカ軍機動部隊との戦い
編集1942年(昭和17年)5月27日、柱島泊地を出撃した[20]。第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊〔旗艦《長良》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲、秋雲》〔秋雲は燃料補給部隊護衛〕、第4駆逐隊《嵐、野分、萩風、舞風》〕)としてミッドウェー海戦に参加する[47]。
6月5日、南雲機動部隊からは計7機の偵察機が発進予定であった(筑摩水偵2機、利根水偵2機、榛名水偵1機、赤城艦攻1機、加賀艦攻1機)[48]。筑摩1号機は午前1時35分に、筑摩4号機は午前1時38分に発進して機動部隊北北東方面を索敵、このうち筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長。旧姓都間。海兵66期)はアメリカ軍機動部隊の上空を通過したが、雲のため見逃している[49][50]。またアメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかったこともアメリカ艦隊発見の遅れに直結し、敗因の一つになったと言われる。午前5時30分、利根4号機がアメリカ軍機動部隊の存在を報告、午前6時38分に筑摩5号機が利根4号機と交代するため発進した[51]。空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)がアメリカ軍機動部隊から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲攻撃で被弾炎上すると、筑摩5号機は空母飛龍の攻撃隊を誘導[51]。米空母ヨークタウンの撃破に貢献したが、5号機は帰投せず行方不明となった[52][53]。 古村艦長は親交のあった柳本柳作・蒼龍艦長[54]を気遣い、筑摩のカッターボートを蒼龍の救援に派遣した[55]。 6月24日、第八戦隊は内地(大湊)に帰投[20]。北方作戦を支援後した[20]。
搭載水上偵察機が三座水偵に統一された[56]。北方作戦支援を終えた第八戦隊は桂島泊地を経て、7月16日に舞鶴へ帰港[20][57]。修理と整備を行った[43][58][59]。8月6日、第八戦隊は舞鶴を出発[20][60]。 8月、第二次ソロモン海戦に参加した。 10月22日、筑摩は駆逐艦照月と共に機動部隊から分離し南方で索敵を行うがアメリカ艦隊を発見できず、本隊と合流した[61]。南太平洋海戦では前衛艦隊に所属し、機動部隊本隊の前方を進んだ[62]。
10月26日午前6時30分、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦比叡)を指揮官とする機動部隊前衛は、(戦艦《比叡、霧島》、重巡《筑摩、利根、鈴谷》、軽巡《長良》、駆逐艦《谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲》)として行動。同隊は筑摩を先頭とした単縦陣となり[63]、針路90度、速力30ノット、各艦距離1万3000mで東方に進撃していた[64]。 午前7時にアメリカ軍偵察機が出現した[65]。それ以降断続的に空襲を受け、午前7時26分以降、空母エンタープライズのSBDドーントレスの急降下爆撃により、艦橋左舷、主砲指揮所、艦橋右舷に爆弾が命中[66][67]。至近弾により右舷缶室に浸水して右舷に傾斜、速力23ノットと���る[68]。僚艦利根はスコールに隠されたためアメリカ軍機の攻撃を受けなかった[69][70]。 古村艦長は午前7時47分に酸素魚雷を投棄させたが、3分後、魚雷発射管付近に直撃弾があり[71]、戦闘不能になった[72][73]。午前8時35分、原忠一第八戦隊司令官は第17駆逐隊(谷風、浦風)を護衛につけトラック回航を命令、3隻(筑摩、浦風、谷風)は午前9時20分頃に前衛艦隊と分離して退避した[74][75]。 正午すぎ、B-17爆撃機数機の水平爆撃を受けるも、アメリカ軍が筑摩の速力を過大に見積もったため命中しなかった[76][77]。29日午前、トラック泊地に到着[78]。山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れ、乗組員の労を労った[79][80]。この海戦で乗組員937名の筑摩は副長・砲術長・主計長を含む162名(883名中151名[81]。また戦死192名・重軽傷95名とも[82])の戦死者を出した[83]。
この後、南太平洋海戦で筑摩と空母翔鶴、空母瑞鳳、重巡熊野は駆逐艦8隻(嵐、野分、秋月、秋雲、浦風、谷風、磯風、浜風)に護衛されて内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した[84]。
1943年(昭和18年)2月末に修理を完了し[85]、利根に先駆けてレーダーを装備し下甲板舷窓を閉鎖する不沈対策を行った。同時期、僚艦利根も内地に戻り、呉や舞鶴で修理に従事する[20]。 3月15日、第八戦隊司令官は原忠一中将から岸福治少将(第九戦隊司令官)に交代[86]。 3月22日、空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻(夕暮、陽炎、初月、涼月)は内地を出発、3月27日にトラックへ到着した[87][88][20]。
5月17日[89]、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を載せた戦艦武蔵が内地に帰還することになり、利根と筑摩は武蔵、戦艦金剛、戦艦榛名、空母飛鷹、駆逐艦5隻(海風、有明、時雨、初月、涼月)と共にトラック泊地を出発した[90]。5月22日、武蔵を除いて横須賀に帰着した[91][92]。 25日、木更津沖に移動した。アッツ島の戦いにより北方作戦に備えたが[93]、同島守備隊は5月29日に玉砕した。
7月、第八戦隊(「利根」、「筑摩」)と第十戦隊(「阿賀野」、駆逐艦5隻)、重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、水上機母艦「日進」からなる第一部隊は陸軍南海第四守備隊の第一次進出部隊を輸送した[94]。陸軍部隊を乗せた第一部隊は7月10日に空母「翔鶴」、「瑞鶴」などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに到着[95]。それからラバウルへ向かい、7月21日に着いた[96]。その先の輸送は第十戦隊と「日進」により行われたが、その際「日進」が沈んでいる[96]。その後、ラバウルに残された第四駆逐隊以外は7月26日にトラックに戻った[96]。
11月1日、アメリカ軍がブーゲンビル島に上陸した(ブーゲンビル島の戦い)。トラック泊地の水上兵力主力は南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将)に編入した[97]。 11月3日午前7時45分、遊撃部隊指揮官(栗田健男中将)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《鈴谷、最上》、第八戦隊《筑摩》)、第二水雷戦隊(軽巡《能代》、第32駆逐隊《玉波、涼波、藤波、早波》)としてトラック泊地を出撃[97][98]。 11月4日午前10時頃より、連合軍機による触接を受ける[99]。タンカー日章丸がカビエン(ニューアイルランド島)北方��空襲を受け損傷したため、栗田中将は艦隊より2隻(鳥海、涼波)を日章丸救援に派遣した[98]。夜、夜間攻撃を受けるが被害なし[100]。
11月5日朝6時、遊撃部隊はラバウル(ニューブリテン島)に到着[99]。約2時間後の午前9時以降、米機動部隊による空襲を受け、筑摩は9時31分、右舷カタパルト付近に至近弾を受けた[101]。軽傷3名、一番魚雷発射管が使用不能、若干の浸水という被害が発生したが[102]、他の艦に比べて損害は軽かった[99]。南東方面部隊は遊撃部隊のトラック泊地帰投を命令[103]。11月7日以降、筑摩以下重巡部隊は漸次トラック泊地に帰投した[103]。
その後、筑摩は僚艦と共に内南洋方面諸島を行動する。 12月7日、駆逐艦3隻(涼月、初月、谷風)に護衛された呉回航部隊(重巡《筑摩》、空母《瑞鶴》)はトラック泊地を出発(谷風は途中で反転)[104][105]。12月12日、筑摩以下各艦は呉へ到着した[106][107]。損傷の修理と並行して、利根で問題となったタービンの修理を行った。
昭和19年の行動
編集1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解隊し、利根、筑摩は最上型重巡洋艦と共に第七戦隊(司令官西村祥治中将)を編成した[108][109]。2月6日、筑摩は空母翔鶴、空母瑞鶴、軽巡矢矧、駆逐艦5隻(初月、若月、秋雲、風雲、朝雲)と内地を出発[110]。2月13日[20]、シンガポール(リンガ泊地)に進出[111][112]。
3月上旬、第七戦隊は南西方面艦隊所属の第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)の指揮下に入り、重巡青葉と共にインド洋における通商破壊活動を実施する[113]。 3月25日、第七戦隊司令官は白石萬隆少将に交代[114]。 本艦は3月から5月までインド洋で通商破壊戦に従事した後(前述)、機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。本海戦で前衛部隊が小沢機動部隊本隊の攻撃隊を誤射したが、則満宰次艦長は射撃命令を出さず筑摩は発砲しなかった[115]。内地帰投後、7月9日に出撃し、リンガ泊地へ向かう[116]。
沈没
編集1944年(昭和19年)10月下旬、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)は栗田艦隊(第一遊撃部隊)に所属してレイテ沖海戦に参加[117]。黛治夫(利根艦長)によれば、則満(筑摩艦長)は作戦の失敗を予見して「だいたい沈められることになる」と語ったという[118][119]。 筑摩は水上偵察機5機を搭載し、索敵任務に投入した[120]。空襲直前には、搭載していた1号機と2号機を発進させている[121]。 10月25日、サマール島沖海戦に於いて第七戦隊各艦は、戦艦金剛、重巡羽黒と共に米護衛空母ガンビア・ベイ を砲撃、撃沈した[122]。海戦序盤、熊野が被雷して落伍すると[123][124]、則満艦長が臨時に第七戦隊の指揮をとった[125]。鈴谷が空襲を受け沈没した[126][127]。
追撃戦中の8時53分頃、筑摩は護衛空母ナトマ・ベイから発進したTBF アヴェンジャーにより魚雷1本を艦尾に受け[128]火災が発生[129][130]。 舵の故障と速力低下で艦隊から落伍し、応急修理を実施した[131][132]。10時20分頃から再びアメリカ軍機の空襲を受ける[133]。 生存者の証言によれば、弾薬が尽きて演習弾で応戦するものの、午後4時頃に艦中央部に複数の命中弾を受ける[134]。左舷に傾斜し、総員退艦が発令された。筑摩はその後、駆逐艦野分[135]により雷撃処分された[136][127]。
海面を漂っていた筑摩生存者は120名余が野分に救助されたが、野分もその晩にアメリカ艦隊に捕捉され撃沈された[137][138]。野分に救助されなかった短期現役士官のみ、3日間の漂流ののちにアメリカ海軍に救助され、戦後日本に帰還した[139]。筑摩・野分の生存者は、筑摩航空機搭乗員を除けば1名のみであった。筑摩搭載偵察機は2機が未帰還機となり、2機が不時着して失われ、1機が稼動状態にあった[140]。舞鶴鎮守府は、単艦で帰投した利根を見て筑摩の沈没を覚ったという[141]。
1945年(昭和20年)4月20日、筑摩は海軍から除籍された[142]。筑摩の慰霊碑は鎌倉市に建立されたが、1979年(昭和54年)11月11日には母港の舞鶴に軍艦利根・筑摩慰霊碑が建立された[143]。
兵装変遷
編集利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意されたいところ。
- 1943年(昭和18年) 損傷修理の際に後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探を装備(前檣)
- 同年12月から翌年2月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。
- 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装23挺を増備。また22号2基(前檣)、13号1基(後檣)を装備する。
レイテ沖海戦時(最終時)の筑摩の機銃とレーダー(電探)は、
- 25mm3連装機銃8基、同連装4基、同単装23挺。合計55挺
- 電探:21号1基、22号2基、13号1基
と推定される。
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』125-126頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
艤装員長
編集- (兼)龍崎留吉 大佐:1938年5月18日[144] - 1938年11月1日[145]
- (兼)友成佐市郎 大佐:1938年11月1日[145] - 1938年12月10日[146]
- 西尾秀彦 大佐:1938年12月10日[146] - 1939年5月20日[147]
艦長
編集- 西尾秀彦 大佐:1939年5月20日[147] - 1939年10月20日[148]
- (兼)原鼎三 大佐:1939年10月20日[148] - 1939年11月15日[149]
- 橋本信太郎 大佐:1939年11月15日[149] - 1940年11月1日[150]
- 小暮軍治 大佐:1940年11月1日[150] - 1941年8月11日[151]
- 古村啓蔵 大佐:1941年8月11日[151] - 1942年11月10日[152]
- 荒木伝 大佐:1942年11月10日[152] - 1943年1月20日[153]
- 重永��計 大佐:1943年1月20日[153] - 1944年1月7日[154]
- 則満宰次 大佐:1944年1月7日[154] - 10月25日戦死(同日附で海軍少将)[155]
同型艦
編集- 利根 [Ⅳ]
参考文献
編集- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
- 生出寿『砲術艦長 黛治夫 海軍常識を覆した鬼才の生涯』光人社NF文庫、1996年6月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2124-7。
- 生出寿『連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6。
- 大内健二、第3章 航空巡洋艦『航空戦艦「伊勢」「日向」 航空母艦と戦艦を一体化させた恐るべき軍艦 付・航空巡洋艦』光人社NF文庫、2014年6月。ISBN 978-4-7698-2834-1。
- 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。
- 木俣滋郎「11.重巡洋艦『筑摩』『鳥海』」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3。
- 古村啓蔵回想録刊行会編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1。
- 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7。
- 戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
- 当時「筑摩」掌飛行長・海軍飛行兵曹長福岡政治『ミッドウェーの地獄を見た筑摩機悲し 筑摩を発着して眼下に見た空母炎上、敵空母発見と飛龍の最後』
- 元航空本部員・海軍大佐永石正孝『海上決戦の花形 重巡洋艦とその搭載機 連合艦隊の前衛として重巡の果たす役割と艦載水上偵察機の変遷』
- 元軍令部部員・海軍大佐三代一就『軍令部の秘策は利根型で実現されたか 主砲を前部に集中、後部を航空兵装にあてた利根型誕生の背景と内幕』
- 当時「鈴谷」艦長・海軍大佐寺岡正雄『「鈴谷」最後の艦長レイテ沖決死の突撃行 至近弾により次々と誘爆、全艦火の海と化し沈没したサマール沖の実相』
- 元「筑摩」艦長・海軍大佐古村啓蔵『先頭第一の栄光に生きた重巡「筑摩」 真珠湾から南太平洋海戦の被弾、遂には比島沖に没した獅子奮迅の記録』
- 当時「利根」艦長・海軍大佐黛治夫『不滅の重巡「利根」の悔いなき航跡 落日せまる太平洋を縦横無尽に疾駆したライオン艦長の戦場報告』
- 戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
- 左近允尚敏『捷号作戦はなぜ失敗したのか レイテ沖海戦の教訓』中央公論社、2010年10月。ISBN 978-4-12-004169-3。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7。
- 戦場の錯誤 <駆逐艦「椿」艦長・田中一郎少佐の証言>(マリアナ沖海戦時、筑摩水雷長)
- 佐藤清夫『駆逐艦野分物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社、1997年。ISBN 4-7698-0803-8。
- 佐藤清夫『駆逐艦野分 若き航海長の太平洋海戦記』光人社NF文庫、2004年1月(原著1997年)。ISBN 4-7698-2408-4。
- 高戸顕隆『私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部 海軍主計大尉の太平洋戦争』光人社、1999年。ISBN 4-7698-2227-8。
- 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127771-4。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 豊田穣『航空巡洋艦利根・筑摩の死闘』講談社、1980年2月。
- 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8。
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- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
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- ドナルド・マッキンタイヤー、大前敏一訳『レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』サンケイ新聞社出版局、1971年3月。
- 重巡利根型 軽巡香取型 丸スペシャルNo.44、潮書房、1980年
- 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
- 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集12 重巡 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩』光人社、1997年5月。ISBN 4-7698-0782-1。
- 「丸」編集部編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6。
- 戦史研究家大浜啓一『日本重巡十八隻の戦歴』
- 当時「筑摩」艦長・元海軍少将古村啓蔵『前衛「筑摩」と南太平洋海戦』
- 元熊野掌航海長兼通信長・海軍大尉青山総市『前衛部隊熊野マリアナ沖決戦記』
- 元鈴谷艦長・海軍大佐寺岡正雄『七��隊鈴谷サマール沖の最期』
- 「丸」編集部編『巡洋艦戦記 重巡最上出撃せよ』光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9。
- 連合艦隊最後の決戦場レイテ沖海戦回想録―左近允尚敏『われらが軍艦 重巡「熊野」の最期』
- ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記―曾爾章『重巡最上出撃せよ ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇』
- 安永弘『死闘の水偵隊』朝日ソノラマ文庫、1994年。 著者は筑摩の乗組(水上偵察機操縦)。レイテ沖海戦から生還。
- 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』光人社、2002年。 朝日ソノラマ文庫の改訂
- 山本佐次郎 編「第七章 巡洋艦筑摩」『両舷直の航跡』成山堂書店、1994年1月。ISBN 4-425-94471-2。 著者は筑摩竣工時の主砲射手。
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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脚注
編集- ^ 機関出力、速力は筑摩の実測値。乗員は法令上の定員。他は計画値、もしくは利根の値
- ^ 昭和14年5月20日付 海軍内令 第407号改正、海軍定員令「第48表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。
- ^ a b #昭和17年6月横鎮戦時日誌(3)画像12、6月25日官房機密第152番電
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- ^ a b #艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|利根型|利根、筑摩|』
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.140『艦名の由来』
- ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実139頁『 二等巡洋艦 二檣(信號用)矢矧・平戸と姉妹艦なり 川の名、千曲川に採る、川名は又筑摩川・千阿川・知隈川等に作る、此艦名には筑摩の字を適用せられたるなり、川は信濃國作久村郡の渓谷に發源し、下流信濃川となりて新潟に於て海に注ぐ。(略)昭和6年4月1日除籍。(要目略)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.200『◎二等巡洋艦筑摩命名ノ件 明治四十四年四月一日(達三七) 佐世保海軍工廠ニ於テ建造ノ伊號二等巡洋艦ヲ筑摩ト命名セラル』
- ^ #大内、航空戦艦142-145頁『(ホ)「利根」級巡洋艦の戦歴』
- ^ #艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『利根|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|9-12-1|12-11-21|13-11-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』
- ^ a b c d #艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『筑摩|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|10-10-1|13-3-19|14-5-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』
- ^ #大内、航空戦艦124-126頁『(ロ)「利根」級巡洋艦の特徴』
- ^ #豊田利根筑摩(1980)37-40頁『生い立ち』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)pp.203-204『◎巡洋艦筑摩命名ノ件 昭和十年九月二十八日(達一一五) 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 筑摩チクマ』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和十年九月二十八日(内令三六四) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦二等利根型ノ項中「利根」ノ下ニ「、筑摩」ヲ加フ/驅逐艦一等朝潮型ノ項中「大潮」ノ下ニ「、満潮、荒潮」ヲ加フ』
- ^ #筑摩通知p.2『龍骨据付ノ日 昭和十年(一九三五年)十月一日』
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.163(筑摩進水式写真)
- ^ 「昭和13年3月22日(火)海軍公報 第3292号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C12070370200 『○進水 軍艦筑摩三月十九日三菱長崎重工業株式會社長崎造船所ニ於テ進水セリ』
- ^ #海の武将19頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #ハンディ判艦艇写真集12pp.160-161(重巡洋艦『利根・筑摩』行動年表)
- ^ #舞廠造機部158-161頁『重巡利根・筑摩の母港初入港』
- ^ #両舷直の航跡75-76頁『舞鶴戦艦、花の十六人衆』
- ^ #紀元二千六百年特別観艦式・第三章p.1
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.148『利根型の航空艤装』
- ^ #重巡十八隻77頁
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- ^ #海の武将27頁
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- ^ #海の武将30頁
- ^ #海の武将31頁
- ^ a b c #豊田利根筑摩(1980)57-59頁
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦496頁
- ^ a b #海の武将32頁
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦495頁
- ^ S1703一戦日誌(1)p.5『三月一日 第十八駆逐隊一小隊、第二十七駆逐隊二小隊及磯風「ジャバ」南方海面ニ於テ蘭国武装商船(モッドヨカード號)ヲ砲撃撃沈ス』
- ^ #機動部隊の栄光(単行本)90頁
- ^ a b #機動部隊の栄光(単行本)91頁
- ^ S1703一戦日誌(1)pp.5-6『三月四日 浦風 筑摩艦長ノ指揮下ニ入リ「ジャバ」南方海面ニ於テ武装貨物船(エンガノ號)拿捕ノ為主隊ト分離之ヲ撃沈五日早朝主隊ニ合同ス』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦510頁
- ^ #豊田利根筑摩(1980)60-61頁では浦風が雷撃したとする
- ^ S1703一戦日誌(1)p.26『五日筑摩艦長(宛略)戰斗概報 筑摩浦風ハ蘭國武装貨物船「ENGGANO」(船問人ナシ)ニ對シ一九五七射撃開始射距離三粁乃至一.五粁 二〇四一筑摩雷撃二〇四三之ヲ撃沈ス 沈没位置南緯一一度五六.二分東経一〇八度二一分 発射彈数筑摩主砲三一高角砲一八一 浦風主砲八 発射雷数筑摩一』
- ^ #S1704舞鎮日誌(1)p.62『二三(天候略)〇九三〇 第八戰隊(利根、筑摩)入港(以下略)』
- ^ a b #舞廠造機部217-221頁『ミッドウェー海戦の前後』
- ^ #S1704舞鎮日誌(1)p.9『(2)其ノ他ノ主要工事 利根、筑摩、第三十三潜水隊、長良及君川丸ノ整備工事、薄雲ノ特定修理工事、其ノ他ノ艦船兵器及陸上部隊等ノ主要訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗シ長良、君川丸整備工事ハ夫々本月末完成セリ』
- ^ #S1705舞鎮日誌pp.10-11『(2)艦船其ノ他ノ工事 利根筑摩第三十四驅逐隊及第三十三潜水隊ノ整備工事竝ニ薄雲ノ特定修理工事、大潮ノ損傷復舊工事、其ノ他艦船兵器及陸上部隊ノ主要造修訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗中ナリ』
- ^ #海の武将35頁
- ^ #木俣空母261-263頁『第八章 ミッドウエー海戦』
- ^ #海の武将38頁
- ^ #海の武将39頁
- ^ #豊田利根筑摩(1980)66-67頁
- ^ a b #海の武将41頁
- ^ #海の武将42頁
- ^ #豊田利根筑摩(1980)79-81頁
- ^ 昭和8年5月11日(木)官報第1905号。国立国会図書館デジタルコレクション p.6
- ^ #重巡十八隻290-291頁
- ^ #重巡十八隻85頁
- ^ #S1707舞鎮日誌(2)p.20『一六(天候略)〇六一五 八戰隊(利根筑摩)入港(以下略)』
- ^ #S1707舞鎮日誌(1)pp.7-8『(b)艦船整備工事 名取(十日)神威(十八日)三十一驅潜隊(三十一日)呂六三潜(十七日)ノ整備工事ハ何レモ概ネ順調ニ進捗各附記ノ通完成作戰地ニ向ケ進出セリ 利根、筑摩ニ對スル整備工事ハ十六日入港以来極力進捗中』
- ^ #S1708舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中』
- ^ #S1708舞鎮日誌p.60『六(天候略)一一四五筑摩出港 一三〇〇利根出港(以下略)』
- ^ #海の武将116頁
- ^ #海の武将117頁
- ^ #重巡洋艦戦記113-114頁『南進、そして反転北上』
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- ^ #海の武将118頁
- ^ #海の武将53頁、「昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」pp.11
- ^ #重巡洋艦戦記116-117頁『屍の山、血の河』
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- ^ #海の武将120頁
- ^ #重巡洋艦戦記117-119頁『魚雷を投棄す』
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- ^ #豊田利根筑摩(1980)22頁
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- ^ #海の武将56.123頁
- ^ #重巡洋艦戦���122頁『奇妙な戦場心理』
- ^ #重巡洋艦戦記124-125頁『筑摩は母艦の身代わり?』
- ^ #海の武将57.126頁
- ^ #重巡洋艦戦記36-37頁
- ^ #重巡洋艦戦記123頁
- ^ #豊田利根筑摩(1980)31頁
- ^ #海の武将125頁
- ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.22『11月1日1717第三艦隊司令長官/一.左ノ各艦(隊)ハ左記ニ依リ内地ニ帰投修理整備作業ニ任ズベシ(1)回航地 艦名:横須賀 翔鶴第四駆逐隊(萩風欠)、秋月/呉:熊野筑摩、第十七駆逐隊第1小隊秋雲 佐世保:瑞鳳、第十七駆逐隊第2小隊 (2)行動(イ)11月2日1400以後「トラック」発各回航地毎ニ先任艦長指揮シ回航スルモノトス。但シ呉佐世保ニ回航スルモノハ途中迄同一行動ヲ執リ分離時迄瑞鳳艦長指揮スベシ(以下略)』
- ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.18『(二)戰備 利根ハ二十一日ヨリ、筑摩ハ十七年十一月初旬以降夫々舞鶴及呉ニ在リテ修理整備ニ從事 筑摩ノ諸工事ハ二月末完了セリ』
- ^ 「昭和18年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090000
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- ^ #S1712四水戦日誌(5)p.25『21日1203(将旗)2sf|2sf及61dg(秋月欠)15dg(陽炎欠)夕暮「トラック」ニ向ケ佐伯発』-p.38『22日|(天候略)|一.夕暮陽炎初月涼月ト共ニ2sf8Sノ直衛ニ任ジツツ佐伯発トラックニ回航ス(略)』
- ^ #武藏上142頁
- ^ #S1801二水戦日誌(6)p.14『一七(天候略)一.一〇〇〇武藏3S 8S 2sf(飛鷹)横須賀ニ向ケ「トラック」發61dg(d×2)27dg(d×2)24dg〇七〇〇出港右護衛ニ任ズ海風本日附主隊編入』
- ^ #S1801二水戦日誌(6)p.6『五月十七日 五月二二日|海風|武藏 3S 8S 2sf(隼鷹欠)|「トラック」→横須賀|海風主隊編入中』
- ^ #S1805四水戦日誌(1)pp.6,33『27dg(時雨、有明)ハ前記任務ノ後17日GF電令作第564号ニ依リGF主隊ニ編入セラレ内地回航部隊(1S(大和欠)、3S、8S、2sf(隼鷹欠))直衛任務ニ従事「トラック」発 22日横須賀着』
- ^ #S1709三戦隊日誌(3)p.13『2.敵ノ「アッツ」島来襲ニ伴ヒ主隊ニ編入ノ上五月十七日「トラツク」発東京湾ニ回航二十二日機動部隊本隊ニ編入セラレ急速北方作戰準備ヲ實施セルモ作戰取止メトナリ内地ニ於テ訓練整備ニ從事スルコトヽナレリ』
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』357、372-373ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』357、372ページ
- ^ a b c 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』373ページ
- ^ a b #叢書96ガ島撤収後396-397頁『栗田部隊のラバウル進出の決定』
- ^ a b #叢書96ガ島撤収後397-399頁『ラバウル進出と逆上陸計画との絡み合い』
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- ^ 「昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.7
- ^ 「昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.8
- ^ 「昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.14
- ^ a b #叢書96ガ島撤収後400-401頁『重巡部隊のトラック帰投』
- ^ #S1812十戦隊日誌(1)p.4『(ロ)61dg(凉月初月)七日「トラツク」発呉行ノ8S(筑摩)瑞鶴ノ護衛ニ任ズ』
- ^ #S1812十戦隊日誌(1)p.23『八谷風|八 一五五五阿賀野(略)昨日二三〇〇筑摩ト分離歸投ス 異状ナシ』-p.45『七(天候略)〇五〇〇天津風雪風千歳伊良湖ヲ護衛トラック発/〇八〇〇凉月初月谷風瑞鶴筑摩ヲ護衛横須賀ニ向ケ「トラツク」発』
- ^ #S1701第八戦隊日誌(8)p.26『(四)六日8S(筑摩)ハ聯合艦隊信令第六四五號ニ依リ兵器其ノ他ノ物件ヲ處理シ(弾薬等一部7Sニ還納以来)陸揚中ノ物件ヲ揚収回航準備ヲ完成、七日〇八〇〇8S(筑摩)瑞鶴61dg(涼月初月)ヲ率ヰ「トラック」發二三〇〇途中迄直衛トナレル谷風ヲ「トラツク」ニ皈投セシメ十一日一六〇〇豊後水道沖島通過十二日〇一〇〇呉ニ入港セリ』
- ^ #S1811佐伯防備隊(6)p.39『八日一一四八呉防戰司令官(宛略)電令第四〇八號 筑摩瑞鶴第六十一駆逐隊ハ十一日一四三〇N31°55′E132°50°ニ達シ尓後東水道ニ侵入ノ予定速力二十四節(以下略)』
- ^ #戦隊行動調書p.8『昭和19 一.一 利根筑摩 7Sニ編入』
- ^ 第八戦隊日誌(8)p.27『(ハ)昭和十九年一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊セラレ、筑摩及利根ハ第七戰隊ニ編入セラル』
- ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.27『六(天候略)矢矧10dg初月若月0630昭南ニ向ケ翔鶴瑞鶴筑摩ヲ護衛洲本發0615朝雲昭南ニ向ケ洲本発』
- ^ #重巡十八隻350頁
- ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.30『二〇(天候略)0000雪風初霜千歳ヲ護衛鹿児島発/0926 10dg瑞鶴ヲ護衛呉ニ向ケ発/1703翔鶴初月リンガ着/1725若月リンガ着』
- ^ #重巡洋艦戦記184-186頁『「サ一号作戦」の後難』
- ^ 「昭和19年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1388号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096900
- ^ #佐藤 艦長(文庫)465-468頁『友軍機誤射事件の真相』
- ^ #S1907筑摩戦時日誌(1)pp.13-14『自昭和十九年七月九日至昭和十九年七月十六日軍艦筑摩行動圖』
- ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.4『(ハ)第七戰隊(将旗熊野、鈴谷、筑摩、利根)ハ第一遊撃部隊ノ第二部隊(3S 7S 10S《旗艦矢矧 17dg 野分》及清霜)ニ属シ第一部隊ト共ニ1YBノ主力トシテ「シビアン」海経由「サンベルナルヂノ」海峡突破「レイテ」泊地突入ヲ企図ス』
- ^ #重巡洋艦戦記190-191頁
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- ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.6『(ロ)搭載機ノ戰斗概要(基地派遣後ノ戰斗ヲ除ク)』
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- ^ #レイテ(1971)138-139頁『米護衛空母に砲弾の嵐』
- ^ #撃沈戦記(2013)147頁
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- ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.8『〇七二四|(旗艦)熊野被雷(出シ得ル速力約一四節)筑摩艦長ヲシテ一時七戰隊ノ指揮ヲ執リ筑摩利根ヲ率ヰ進撃セシム対空戦斗砲雷戦』
- ^ #重巡十八隻280-282頁『全乗員退艦せよ』
- ^ a b #レイテ(1971)157頁
- ^ #撃沈戦記(2013)152頁
- ^ #サイパン・レイテ海戦記263頁
- ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊pp.26-27『〇八五三|敵艦爆約三十機雷撃機数機筑摩利根羽黒鳥海ノ附近ニ来襲対空戰斗 筑摩ノ両舷ニ雷撃機各二機超低空ニテ襲撃ス尚筑摩上空ニ敵戰斗機数機アリ筑摩ハ全放火ヲ挙ゲテ射撃中ナルヲ認ム(利根ヨリ目視距離五粁内外)筑摩右舷ニ雷撃機一機戰斗機一機計二機撃墜(利根ヨリ目視セル筑摩ノ被雷状況左ノ通)最初右舷ヨリ来襲セル雷撃機二機ニ対シ向首回避運動中筑摩ノ左舷ヨリ更ニ雷撃機二機超低空ニテ襲撃間モナク船尾ニ魚雷命中セルモノヽ如ク火焔ト共ニ船ノ全長ニ近キ大水柱昇騰後甲板單装機銃等被弾スルヲ認ム 後甲板後半部大破沈下セルモノヽ如キモ稍低速航行ヲ續ケ奮戦シツヽアリ「我舵故障」ノ信號ヲ掲ゲツヽ旋回中後部ヲ除キ外形上ノ著被ヲ認メズ』
- ^ #レイテ(1971)140-141頁
- ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.8『〇八五三|筑摩敵機ノ襲撃ヲ受ケテ船尾被害大、舵故障ニテ分離ス 利根ハ羽黒《5S旗艦》ト共ニ敵空母ヲ猛攻シツヽ進撃ス』
- ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.43『(三)筑摩ハ二十五日〇七二四(旗艦)熊野損傷後一時利根ヲ指揮シツヽ敵ヲ急追大ニ戰果ヲ擧ゲツヽアリシガ雷撃機ノ来襲ヲ受ケ〇八五三被雷後速力急減シ分離尓後数次ニ亘ル敵機ノ攻撃ヲ受ケタルモノヽ如ク一一二〇野分ヲ之ガ警戒ニ分派セラレタルモ其ノ後両艦共消息ナク全員壮烈ナル最後ヲ遂ゲタルモノト認ム』
- ^ #サイパン・レイテ海戦記396頁
- ^ 捷号詳報(6)第7戦隊p.32『1120野分→1YB/筑摩ノ位置知ラサレ度』-『1142将旗1YB→野分通報 筑摩「野分ハ筑摩ノ警戒艦トナレ筑摩ノ位置「タクロバン」ノ85度125浬1120」』
- ^ #重巡十八隻297頁
- ^ #駆逐艦野分物語222頁
- ^ #レイテ(1971)175頁
- ^ #駆逐艦野分物語221頁、林義章(筑摩4番主砲砲員)談。
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- ^ 「海軍公報第121號(甲配付)昭和20年4月27日(金)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070204400 『内令第三四六號(軍極秘)舞鶴鎮守府在籍 軍艦 筑摩 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年四月二十日 海軍大臣』
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