スマトラ島
スマトラ島(スマトラとう、インドネシア語: Pulau Sumatera、ジャワ語: سومترا)は、全域がインドネシア共和国、大スンダ列島に所属する世界で6番目に大きい島である。北部にはインドネシアで5番目に人口の多い都市メダンがある。マレー半島やカリマンタン島と同様に油田が存在し、特に中部のミナス油田はインドネシアで埋蔵量、産出量共に最大である。
スマトラ島 | |
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所在地 | インドネシア |
所在海域 | インド洋、マラッカ海峡 |
所属諸島 | 大スンダ列島 |
座標 | 北緯0度0分0秒 東経102度0分0秒 / 北緯0.00000度 東経102.00000度座標: 北緯0度0分0秒 東経102度0分0秒 / 北緯0.00000度 東経102.00000度 |
面積 | 473,600 km² |
最高標高 | 3,805 m |
最高峰 | クリンチ山 |
最大都市 | メダン |
プロジェクト 地形 |
歴史
編集マラッカ海峡に臨み東西交通の要衝であるため、古代からシュリーヴィジャヤ王国(7世紀-13世紀)などの諸王朝(en:Dharmasraya、en:Pagaruyung Kingdom)が興った。その後はスマトラ島の大部分はマジャパヒト王国の支配下に入っている。古くはヒンドゥー教、仏教が優勢だったが、交易を通じてイスラム教が入流入し、13世紀末からイスラム教王朝の支配もあった(サムドラ・パサイ王国、アチェ王国、シアク王国)。
1292年、マルコ・ポーロがサムドラ・パサイ王国を訪れている。
14世紀にはイブン・バットゥータが訪れている。
パドリ派とアダット派(オランダ軍が支援)の間でパドリ戦争(1821年 - 1837年)。北部アチェ王国が最後まで抵抗したが、1873年~1914年のアチェ戦争後、オランダ東インド会社の支配権が確立した。
太平洋戦争において、パレンバンの豊富な石油資源を求めて日本が1942年に占領したが1945年に撤退。
1949年のインドネシア独立後は、豊富な石油資源をもとに経済開発の中心の1つとなっている。
アチェ州分離独立運動
編集19世紀までは北部にアチェ王国が存在したが、オランダによって征服された。第二次世界大戦後、イスラム教の流れからイスラム共和国建設の流れを強め、アチェ王国の流れをくむ武装勢力自由アチェ運動が、アチェ州の分離独立を求めてインドネシア軍と戦闘を行っていた。しかしながら、2004年12月のスマトラ沖地震において当地が地震と津波の甚大な被害をこうむったことを契機に、和平交渉の端緒が開かれた。2005年8月15日にインドネシア政府とアチェ自由運動の間でヘルシンキ和平合意が調印され、戦闘は終結した[1][2]。
地理
編集長さ1,790km、幅最大435kmでインド洋と南シナ海を隔てる島である。マレー半島との間はマラッカ海峡、南のジャワ島を隔てる海峡はスンダ海峡で、どちらもアジアの輸送要衝である。島の西海岸沿いに火山活動を伴うバリサン山脈が走り、最高点はクリンチ山 (3,805m)。メダン南のトバ湖はここ200万年で地球最大の噴火が起こった跡のカルデラ湖。避暑地、観光地として有名で、湖に浮かぶサモシール島はバタク人の伝統家屋や舞踊などが楽しめる。中部高原はスマトラの人口の集中地をなすが、東海岸の大部分は湿原が展開し、人口は希薄。北部アチェ州は古くから交易が盛んで、インドネシアで最も早くイスラム教を受け入れた場所である。ほぼ中央部を赤道が走り、高温多雨。主要都市はメダン、パレンバン、パダン。スマトラ島北西端部には標高1,601mのラヤ山がある[3]。
行政区画
編集要目
編集地震
編集この地方はインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートがぶつかり合うスンダ海溝(ジャワ海溝)がある為、度々大きな地震が発生している。特にマグニチュード (Mw) 9.1を記録した2004年12月26日のスマトラ島沖地震とそれに伴う津波では、北部アチェ州を中心に10万人以上が死亡した。
また、2009年9月30日に発生した地震ではMw 7.6を記録し、震源地に近い西スマトラ州で大きな被害が報告されている。
交通
編集脚注
編集- ^ “スマトラ島”. インドネシア進出支援. 2020年6月28日閲覧。
- ^ “外務省:インドネシア・アチェの和平合意について”. 外務省 (2005年8月15日). 2020年6月28日閲覧。
- ^ Gunung Raya
- ^ Badan Pusat Statistik, Jakarta, 2021.