シリア
- シリア・アラブ共和国
- الجمهورية العربية السورية
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(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:حماة الديار祖国を守る者たちよ
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公用語 アラビア語 首都 ダマスカス 最大の都市 ダマスカス - 政府
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大統領 バッシャール・アル=アサド 副大統領 ナジャーハ・アル=アッタール
ファイサル・ミクダード首相 ムハンマド・ガーズィー・アル=ジャラーリー 人民議会議長 ハンムーダ・サッバーグ - 面積
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総計 185,180km2(86位) 水面積率 0.6% - 人口
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総計(2022年) 21,563,800[1]人(60位) 人口密度 116.4人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2010年) 2兆7,918億[2]シリア・ポンド (YTL) - GDP(MER)
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合計(2010年) 600億[2]ドル(67位) 1人あたり 2,804[2]ドル - GDP(PPP)
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合計(2010年) 1,364億[2]ドル(68位) 1人あたり 6,375[2]ドル
建国
- 宣言
- 承認フランスより
1944年1月1日
1946年4月17日通貨 シリア・ポンド (YTL)(SYP) 時間帯 UTC+3[3] (DST:なし) ISO 3166-1 SY / SYR ccTLD .sy 国際電話番号 963
シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、アラビア語: الجمهورية العربية السورية)、通称シリアは、西アジアに位置する共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカスで[4]、古くから交通や文化の要衝として栄えた。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。
概要
編集東西交通の十字路に当たるため、古代からヒッタイト、アケメネス朝、マケドニアなどの支配を受けた。7世紀に興ったウマイヤ朝がダマスカスに都を置くと、イスラム文化の中心地として栄えたが(661-750年)、続くアッバース朝が都をバクダッドに移すと、その役割は薄れた。16世紀以降はオスマン帝国の領土となる。20世紀初頭にフランスの植民地になり、1946年に独立した[5]。
1963年に社会主義路線のバアス党が政権を奪い、1970年に同党の軍部クーデターによりハフェズ・アサドが政権を掌握し、軍と秘密警察を後ろ盾としたバアス党独裁体制が築かれた[5]。2000年の死去後もその独裁体制は息子 バシャール・アサドに引き継がれ、現在に至っている[5]。近年は強権的支配への反発が強まっており、アラブの春により2011年にシリア内戦が発生した[6]。内戦はアメリカ合衆国やロシアなどの外国勢力も参加したことで悪化し、多くのシリア難民を生んだ。
半世紀にわたって独裁体制を維持できているのは、汎イスラム主義と他信仰に寛容な世俗主義という相反するイ���ムの使い分けによるとされる[5]。ただし、政権批判や反政府活動に対しては容赦ない弾圧を加えており[5]、英国のエコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、下から4番目の世界164位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)[7]。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも下から7番目の174位と下位で最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)[8]。
外交は反イスラエル・反米路線が顕著であり、イスラエルと数度にわたって戦争を行ない(中東戦争)、1967年の第三次中東戦争の結果、南西国境地帯のゴラン高原を占領されている[9]。イスラエルに対抗してレバノンで活動するシーア派原理組織「ヒズボラへの支援を行っている[5]。このことからアメリカ合衆国からはテロ支援国家に指定されている[10]。1990年代には和平交渉が断続的に行われたが、2000年3月に暗礁に乗り上げた[11]。
経済面では、国の歳入は、東部で産出される石油が1位だが、産出量・埋蔵量とも少ないため、枯渇が深刻化している。ただし、綿花、小麦、オリーブ栽培といった農業の他、繊維、食品加工、セメントなどの工業も見られ、中東諸国に顕著な石油依存のモノカルチャー経済というわけではない[5]。
面積は約18万5000平方キロメートル。人口は約2000万人で、9割をシリア系アラブ人が占める。イラン語系のクルド人や印欧語系のアルメニア人他も存在する多民族国家である。公用語はアラビア語。アラブ系国民の9割近くをイスラム教スンニ派が占めているが、現大統領アサドはアラウィー派(シーア派の一派)である。アルメニア使徒教会やコプト正教会など東方教会系のキリスト教徒も1割ほどいる[5]。
国名
編集正式名称は、アラビア語でالجُمهُورِيّةُ العَرَبِيّةُ السُّورِيَّةُ(翻字: al-Jumhūrīyah al-'Arabīyah as-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・ル=アラビーヤ・ッ=スーリーヤ、通称 سُورِيَا(Sūriyā スーリヤー)または سُورِيَة(Sūrīya スーリーヤ)。
公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・リパブリック)。通称 Syria (シリア)。
日本語の表記はシリア・アラブ共和国[12]。通称シリア。
歴史
編集アケメネス朝
編集- アケメネス朝ペルシアが古代オリエントを統一。
セレウコス朝
編集- 紀元前305年 - マケドニアのセレウコス将軍が王号を名乗る。首都はアンティオキア(現在のトルコ領アンタキヤ)。
- 紀元前304年 - インド領からの撤退が始まる。
- 紀元前301年 - シリア地方獲得。
- 紀元前274年 - ガリア人侵入を撃退。
- 紀元前274年〜紀元前168年 - コイレ・シリアをめぐるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトのシリア戦争。
- 紀元前130年 - パルティア軍に敗北。全東方領土を喪失。
ローマ帝国
編集イスラム帝国
編集661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。
セルジューク朝
編集ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。
十字軍国家
編集1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国をはじめとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。
アイユーブ朝
編集1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。
モンゴル帝国
編集マムルーク朝エジプト
編集オスマン帝国
編集- 15世紀ごろ - オスマン帝国の支配下に置かれる(ダマスカス・エヤレト)。
- アラブ反乱(1916年 - 1918年)
OETA
編集- 1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。
独立・シリア王国
編集フランス委任統治領シリア
編集- 1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる。
- 1920年9月1日 - ダマスカス国(ジャバル・ドゥルーズ地区を含む)、アレッポ国(アレキサンドレッタ地区を含む)、大レバノンに分離・分割。
- 1920年9月2日 - アラウイ自治地区を分離・分割。
- 1921年5月1日 - ジャバル・ドゥルーズ地区を分離・分割。
- 1921年10月20日 - アンカラ条約によりアレキサンドレッタ地区が成立。
- 1936年9月 - フランス・シリア独立条約交渉でフランスが批准を拒否。
- 1938年9月7日 - ハタイ国(1938年 - 1939年、現トルコ共和国ハタイ県)
独立・シリア共和国
編集- 1946年 - シリア第一共和国としてフランスより独立[14]。同年、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。
- 1949年 - 1949年3月クーデターによりフスニー・アッ=ザイームが政権を握るが、同年8月に打倒されハーシム・アル=アターシーの挙国一致政権が成立する。
- 1951年 - 12月にアディーブ・アル=シーシャクリーによるクーデターが発生し、軍事独裁政権が成立する。
- 1952年 - 再度、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、シーシャクリー政権は全政党を禁止する。
- 1954年 - ドゥルーズ派による反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、1954年クーデターにより、シーシャクリー政権が打倒される。
- 1957年 - ソ連との間に経済技術援助協定が締結される。
アラブ連合共和国
編集独立・シリア・アラブ共和国
編集- 1961年 - 9月に陸軍将校団によるクーデターが発生し、エジプトとの連合が解消され、シリア・アラブ共和国として再独立。
バアス党政権樹立
編集- 1963年 - 3月8日革命によりバアス党が政権を獲得。
- 1964年 - ハマー動乱 (1964年)、同年、元大統領のシーシャクリーが亡命先においてドゥルーズ派の青年に暗殺される。
- 1966年 - 1966年クーデターが起き、バアス党の若手幹部によって古参幹部が追放され、バアス党組織はシリア派とイラク派に分裂。
- 1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う。
ハーフィズ・アル=アサド政権
編集- 1970年 - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健・現実主義派がクーデター(矯正運動)で実権を握る。
- 1971年 - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出。
- 1973年 - 第四次中東戦争。
- 1976年 - レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。
- 1980年 - ソビエト・シリア友好協力条約締結。
- 1981年、ハマー虐殺 (1981年)。
- 1982年、ハマー虐殺。
- 2000年 - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子のバッシャール・アル=アサドが大統領就任。
バッシャール・アル=アサド政権
編集ダマスカスの春
編集一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされることが多いが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されていない。その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、個人独裁ではなくバアス党(および衛星政党)による独裁である。バッシャール・アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春」と呼んだ。
改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には就任まもないバッシャール・アサドの体制内での権力基盤を強化するためのものでシリアの「民主化」を目的としたものではなかった。事実、2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1か月足らずで崩壊させられたことを受けると、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、それ以前は一定程度容認されていたデモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。また、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどでいわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、権威主義体制が次々と崩壊したことに脅威を覚えたためだと見られている。その後、2011年のアラブの春を契機とした市民による民主化要求運動を武力で制圧したとことによって、結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。
- 2005年 - レバノンよりシリア軍撤退。
- 2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。
- 2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。
シリア内戦
編集2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会」(NCC)の2つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement) のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「自由シリア軍」(FSA)というイスラム過激派武装組織も作られている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。
2012年の反体制武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、戦局が悪化。兵士の集団離脱まで発生し、一時は体制崩壊間近との観測も流れた。シリア政府軍は同国西部地域が危殆に瀕する情勢に際し、ハサカ・デリゾール・ラッカ県など、同国東部地域に展開する戦力の大部分を西部へ転進させるのみならず、内戦開始後も依然として控置されていた虎の子の対イスラエル戦備をも大規模に抽出転用するなど、西部地域に兵力を集中させて防衛に尽力、2012年後半の苦境を瀬戸際で乗り切り、2013年3月初旬には反体制派支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を啓開した。しかし、対照的に防備が薄弱となった東部地域はそのほとんどが反体制武装勢力に制圧され、アレッポへの補給路啓開と機を同じくする3月初旬、ラッカ市が反体制武装勢力に制圧され、内戦開始後初の県都陥落となった。
一方、ロシアやイランを筆頭とする同盟国は、シリア政府を支えるため軍事援助を継続したほか、ヒズボラをはじめとしたシーア派武装勢力による政府軍への直接支援が開始され、2013年春以降、政府軍は西部地域における勢力基盤確立と反体制武装勢力の封じ込めを企図し、戦局を巻き返すため攻勢に転移した。同年4月上旬に始まった作戦により政府軍は首都ダマスカス周辺の反体制武装勢力支配地区を削縮し、同月中にはこれらを包囲することに成功した。そして、5月には同国中部における反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還。さらにホムス県最西部を制圧し、ホムス県北部に盤踞する反体制武装勢力の根拠地を包囲するなど政府軍が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用された。一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。
政府軍は同年3月にアレッポ市への補給路啓開に成功していたが、本兵站線は依然脆弱な状態が続いていた。ダマスカス近郊における化学兵器使用事件直後の8月下旬、アレッポ県にて反体制武装勢力の攻勢が開始され、アレッポ市への補給路は再び遮断されるに至った。この攻勢は翌9月中旬まで続き、サフィーラ市近郊の政府軍重要拠点も反体制武装勢力に包囲された。しかし、アレッポ市周辺における反体制武装勢力の活発な軍事行動は政府軍の苛烈な反応を惹起することになった。空爆の危機を回避した政府軍は、北部における抗戦基盤強化に向け、アレッポ市への補給路再打通を企図する攻勢を10月1日付で発動した。2か月間にわたった本攻勢によって政府軍はアレッポ市への補給路打通と政府軍重要拠点解囲を達成したのみならず、サフィーラ市攻略とアレッポ国際空港周辺の脅威排除にも成功した。続いて、2013年末ごろからはレバノン国境地帯で政府軍による大攻勢が始まり、翌2014年の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下に置かれていたホムス旧市街から反体制武装勢力が撤退した。これによってシリア政府は、反体制派によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。さらに同年8月、政府軍は首都ダマスカスとダマスカス国際空港を結ぶ交通幹線を扼す要衝であり、依然反体制武装勢力の勢力下にあったムライハを力攻し、これを制圧した���
2013年の政府軍の大攻勢に対して反体制派各派は内紛によって有効な手段を講ずることができず、このことも政府軍の軍事的成功の一助となった。特に反体制派の一角を占めていたクルド人勢力とイスラーム主義勢力が鋭く対立したため、クルド人勢力は北部においてトルコやイラクのクルド人民兵などの支援を受けて支配地域を確立すると急速に中立化した。ロジャヴァ・クルド人自治区を創設し、事実上の自治権を獲得すると、シリア政府もこれを黙認する姿勢をとり、クルド人勢力と政府側との対立は沈静化した。
しかし、2014年夏以降、それまでの反体制武装勢力が内紛によって衰退すると、イスラム過激派のISIL(イラクとレバントのイスラム国)が反体制運動の中心に躍り出た。サウジアラビアを中心としたスンナ派湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力や、それまで体制転換を目指した国々によって反政府武装勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続いた。特に東部のラッカ県やデリゾール県などでは、政府軍の残余部隊や自由シリア軍およびヌスラ戦線などが駆逐され、ISILによる非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権が築かれた。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍対反体制武装勢力という従来の内戦の様相は、西側有志連合・ISIL・政府軍・クルド民兵・アルカーイダ系武装勢力(アル=ヌスラ戦線など)・その他のイスラム主義武装集団(イスラーム戦線など)が角逐するという複雑な構造へ変化しつつあり、もはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反体制勢力であった民主化を求めていた市民のデモ隊やシリア国民連合はほとんど力を失った。2015年春にはISILはパルミラ遺跡やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。
これに対し、シリア北部においては、アル=ヌスラ戦線などを中心とするアルカーイダ系武装勢力が反政府勢力内の世俗主義勢力との内紛に勝利したのち、政府軍への攻勢を強めた。ヌスラ戦線とその同盟勢力は、2014年8月から9月にハマー市を指向する大攻勢を実施したが、本攻勢はハマー市近郊まで迫ったものの、政府軍の縦深によって阻まれて攻勢限界に達した。これを受けて政府軍は精鋭を投入して反攻に移り、ヌスラ戦線と同盟勢力が攻勢開始後に制圧した地域はほぼ奪還した。ヌスラ戦線は本攻勢が挫折したのち、攻略目標をイドリブ県に変更し、12月にはイドリブ県中部の政府軍大拠点の覆滅に成功した。政府軍はイドリブ県において、県都イドリブ市とハマー県西北部を結ぶ交通幹線周辺を掌握し回廊状の支配地域を形成していたが、2015年2月、アルカーイダ系武装勢力は大攻勢を実施してイドリブ市を攻略。内戦開始後2つ目となる県都陥落となった。政府軍は、イドリブ市を回復するため精鋭部隊を投入するも拠点を次々奪われ、最終的にイドリブ県西部の要衝まで喪失するなど2012年以来の大敗北を喫し、イドリブ県における支配地域をほとんど喪失した。アルカーイダ系武装勢力はイドリブ市を中心としてイドリブ県やアレッポ県西部一帯に勢力を扶植しており、当該地域を根拠とするイスラム首長国の建設を試みているとされる。
ただし、北部および東部とは対照的に、ダラア県を中心とする南部地域は2014年中においても依然として自由シリア軍を中心とする勢力が有力であった。政府軍は県都ダラア市の北半を確保していたが、東・西・南側を反体制武装勢力に制圧され半包囲の状態にあり、首都ダマスカス方面へ延びる交通幹線周辺を掌握することによって回廊を形成し、戦線を維持していた。シリア政府軍はダラア県における状況を改善すべく、同年夏ごろより県西部諸都市の攻略へ向けた作戦を発起し、劣勢を挽回しようとしたもののこれに失敗。逆に反政府武装勢力による総反攻に直面するに至った。2014年秋ごろに開始された反政府武装勢力の攻勢は、南部地域全域に及ぶ広範なもので、南部の反政府武装勢力が総力を傾けた本攻勢により、政府軍はダラア県の西部およびヨルダン国境地帯における統制を喪失。ダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線も圧迫を受けるに至った。さらに反体制武装勢力は、残る回廊部の遮断とダラア市政府支配地区の攻略に向けた行動を強めたが、回廊部および市街は政府軍の重防御地区であったため消耗戦の様相を呈し始め、回廊遮断を目前にして反体制武装勢力は攻勢限界に達し、冬前に攻勢は収束した。南部における戦線崩壊を回避した政府軍であったが、先の攻勢によって、反体制武装勢力がダラア県西北からダマスカス郊外県西南部一角にかけて突出部を形成し、これによるダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線の圧迫が続いていた。これを放置することはヘルモン山南麓や西ゴータ地域の反体制派支配地域への打通を許すことにもつながりかねず、さらにダマスカス南外縁の主防衛線が危機に陥る可能性も孕んでいた。状況を改善すべく、政府軍による攻勢が翌2015年1月に発起された。本攻勢は、反体制武装勢力の突出部を消滅させて脅威を排除したうえで、さらにヒズボラなどとの協力のもとに南下、一挙にダラア県西部北半における政府軍の主導権奪取を目論む乾坤一擲の作戦であった。だが、政府軍は突出部を消滅させ、クネイトラ方面への交通幹線に対する圧迫を解消するなど一定の成果を得たものの、それ以後は戦果低調であり、ヒズボラの支援を受けながらもダラア県西部への進攻は反政府武装勢力により拒止され、戦局の挽回には至らなかった。2014年後半に南部地域で実施された反体制武装勢力の攻勢は、政府軍を苦境に追い込んだものの、別の結果も生まれた。それは攻勢の規模の大きさゆえに反体制武装勢力自身の戦力をも激しく耗弱・疲弊させたことであった。このことは結果的に南部の反体制武装勢力内におけるアルカーイダ系武装勢力の存在感を高めるなど重大な影響を及ぼした。
先述のように、2014年後半以降、ISILやヌスラ戦線などイスラム過激派の勢力拡大傾向は次第に強まりを見せたが、政府軍は2013年から2014年にかけて自身が実施した大規模作戦や2014年後半の反体制武装勢力による大攻勢への対処などによって戦力を著しく損耗させており、兵力不足が以前にも増して顕在化しつつあった。このような状況下で政府軍は、国内西部の都市とそれらを結ぶ幹線の維持による持久戦の指向を示唆。2015年3月のイドリブ市陥落後、同年5月初旬の演説においてアサド大統領自身が大敗を認めたほか、7月下旬の演説においては、シリア全土に対する支配を放棄しないことが原則であると断ったうえで、すべての地域における同時勝利は不可能であることを認め、戦略上重要であり維持されるべき地域に軍部隊を集中し、一部地域を放棄せざるを得ない場合もあると述べるなど、西部地域重視の傾向はますます強まった。具体的には、戦略物資搬入の拠点であるラタキア・タルトゥース・バーニヤースなどの地中海沿岸諸都市および、国内交通の要衝であるホムスやハマー・スワイダー・サラミーヤをはじめとする政府支持基盤の盤石な都市に加えて、首都ダマスカスならびに北部最重要都市アレッポなど、西部の各主要都市の防衛と各都市間を結ぶ兵站線の保持がもっとも重視されており、政府軍はそのために戦力を傾注している。これらの都市群およびその隣接地区は、沿海部のアラウィー派をはじめ、キリスト教徒、ドゥルーズ派、イスマーイール派など、シリア・バアス党とその衛星政党の支持基盤である少数宗派の集住地であるほか、スンナ派世俗層も多い地域である。また、政府軍の方針に策応したヒズボラは、レバノン・シリア国境に広がる山岳地帯を拠点に両国をまたぐ形で活動し、ホムス・ダマスカス間の交通幹線に対する脅威となっていたISILとヌスラ戦線に対し、大規模作戦を発動して両勢力を減殺、交通幹線に対する脅威を排除した。北部ならびに東部においてISILやアルカーイダ系武装勢力が着実に地歩を固めつつあるのに対して、政府軍はレバノン国境地帯に残存する未奪還地域の統制回復に向けた行動を活発化させ、2015年秋までに所期の目的を達した。また、北部のロジャヴァ・クルド人自治区に対してはトルコ軍がPKK(クルディスタン労働者党)の過激派が潜んでいるとしてテロリスト制圧目的に軍事進攻するなど、入り乱れた模様となっている。さらに、同年9月30日よりロシア軍はシリア政府の要請を受けてシリアへの本格的な軍事介入を開始[15]。ロシア軍の航空支援やイラン革命防衛隊の地上支援を受けた政府軍は2015年秋以降、アレッポ市郊外やラタキア県北部における攻勢を強化しており、アレッポ市郊外では2013年以来、反体制武装勢力やISILによって包囲を受けてきた航空基地や小都市の解囲作戦に成功し、反体制武装勢力の補給路を一部遮断した。政府軍はさらに、県都イドリブや孤立状態にある政府支配地区が所在し、反体制武装勢力の補給拠点が存在するイドリブ県北部を指向しており、当該地域の東西にあたるアレッポ県およびラタキア県から接近を試みている。政府軍の攻勢に対し、ISILはアレッポ市とサラミーヤ市とを結ぶ交通幹線への攻撃を強め一時的にこれを遮断した。
ロシア軍の空爆に対し、米国やフランス、トルコをはじめとしたNATO諸国、サウジアラビアやカタールなどのスンナ派湾岸諸国は、ロシア軍の空爆対象はISILやアルカーイダ系武装勢力などのイスラム過激派のみならず、西側有志連合が支援する反政府武装勢力も含まれているとして、ロシアを強く非難しているが、一方では親欧米のエジプトや従来はアサド政権と敵対していたイスラエル、キリスト教の総本山であるバチカン市国がイスラム過激派をアサド政権以上の脅威とみなし、ロシア軍の空爆を支持又は黙認している。さらに、英仏もISILに対する空爆を本格化させているなど、シリアを舞台に各国が思惑が異なる中で勢力図争いを行っており、泥沼の紛争状態が続いている。冷酷で残忍なISIL(イラクとレバントのイスラム国)支配拡張と終わりの見えない内戦は大量のシリア難民を生み、国際問題となっている。2015年7月には全人口2,200万人のうち国外への難民は400万人に達している[16]。
さらに、2017年10月のラッカ陥落以降ISの攻勢は終焉を迎えたものの、紛争は複雑な構成となっており、2016年12月のアレッポでの戦いを制したアサド政権がロシア軍、イラン軍、ヒズボラなどの支援により一部地域を除いて国土の大半を掌握、イランとロシア、ヒズボラに支えられたシリア政府軍、英米仏を中心としたNATO軍とサウジアラビアやその同盟国(有志連合)に支えられるアルカーイダを含んだ反政府イスラム過激派、そして、イドリブのイスラム過激派の反政府武装勢力を支援してシリア北部のアフリーンに侵攻しクルド人勢力を叩くトルコ軍、アサド政権へは中立的な立場を取り、米露双方から支援を受けIS壊滅に大きく貢献し、トルコ軍や反政府軍とも戦うクルド人勢力、さらに欧米と同盟国として共同歩調を取りつつもアサド政権を支援するイランやヒズボラへ越境攻撃するイスラエル軍の5つの勢力によるプロパガンダや偽造工作などの情報戦を含んだ熾烈な争いとなっている。
2018年4月には、7年にわたり反政府イスラム過激派の大規模な拠点であったダマスカス近郊の東グータ地区を政権軍が掌握[17]。これにより、反政府勢力はアサド政権の中枢であるダマスカス官庁街を攻撃する手立てを完全に失い、少なくともアサド政権の存続は確定的となり、7年にわたる戦争の勝利も濃厚となった。東グータ陥落の直前には「シリア政府軍による化学兵器攻撃が行われた」とする東グータで活動する反政府組織(ホワイト・ヘルメット)の主張をもとに、英米仏によるアサド政権攻撃が行われるも、NATO軍の介入を呼び込むことで逆転に懸けた反政府勢力の意図に反し、軍事作戦は懲罰の意味合い程度の単発的なミサイル攻撃に留まった。
アサド政権打倒を目指して始まったシリア内戦は、2018年4月の東グータ陥落に伴いアサド政権の存続で一つの区切りを迎えたが、イドリブを中心とした北西部に撤退して抗戦を続ける反政府勢力、北東部を中心に独自の勢力圏を維持するクルド人勢力、これら地域の奪還を目指すアサド政権、シリア東部に違法に駐留する米軍、各勢力を支援する欧米・ロシア・トルコ・イラン・サウジアラビア、イラン牽制の独自の戦略を持つイスラエルなど、依然としてシリア国内外の勢力がそれぞれの戦略で直接・間接に軍事活動を続けているため、戦闘の主軸はシリア北部へ移動し、戦争の性質はアサド政権によるシリア再統一を目指した反政府勢力の掃討作戦へと転換したものの、戦争勃発から9年が過ぎた2020年3月に至るもいまだに紛争解決の目途は立っていない。
しかしながら、2023年にはアラブ連盟への復帰が認められ、アラブ諸国の一員として復活[18]。2023年時点では紛争は完全解決には至らないものの一応は安定を見せており国外に流出した難民も帰還し、2023年の人口は23,022,427人と紛争開始前の水準を超えるまで回復している。
政治
編集シリアは共和制、大統領制をとる国家である。1963年の3月8日革命(クーデター)以降、一貫してバアス党(アラブ社会主義復興党)が政権を担っている(バアス党政権)。現行憲法の「シリア・アラブ共和国憲法」は1973年の制定当初、国家を社会主義・人民民主主義国家とし、バアス党を「国家を指導する政党」と定めていた。しかし、2011年のシリア騒乱勃発を受けて行われた2012年の憲法改正(Syrian constitutional referendum)で、これらを定めた条文はいずれも削除されている。
シリア騒乱勃発後、バアス党政権の正統性を認めない反体制派の諸団体が現行政府の打倒を目指し国内外で活動している。反体制派を支援してきた欧米・中東の一部の国々は、反体制派を「穏健な反体制派」とイスラム過激派とに区分し、「穏健な反体制派」のシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認している(後述)。しかし、シリア政府の関係者は反体制派全体をテロリストと認識しており[19]、反体制派をあえて2つに区分するのを無意味なこととみている[20]。
元首
編集国家元首である大統領は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法をとっていた。大統領の任期は7年で、ムス���ムでなければならない。再選の制限は特になかったが、2011年以来のシリア内戦の初期に政権側から示された妥協案のひとつである憲法改正により、2任期の制限が設けられた(ただし、憲法改正以前にさかのぼっての適用ではないため、現職のバッシャール・アル=アサドは実質3任期目である)。また、バアス党の専権であった大統領候補者提案権も削除され、人民議会議員35名以上の文書による支持が新たな候補者要件となった。
行政
編集首相と内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。
立法
編集立法府たる議会は一院制で、正式名称は「人民議会」。定数は250議席。人民議会議員は国民の直接選挙(15選挙区)で選出され、任期は4年である。定数250議席のうち、127議席は労働者と農民の代表でなければならないと規定されている。
大統領は絶対的な必要性がある場合は、人民議会の閉会中でも立法権も行使することができ、シリア軍の最高司令官も兼任する。
1973年に制定されたシリア・アラブ共和国憲法では、第8条においてバアス党が「国家を指導する政党」と規定され、バアス党によるヘゲモニー政党制がとられていたが、2011年より始まったアラブの春による一連の改革要求や反政府活動に応える形で2012年に憲法の抜本的改正が行われ、前記の規定は削除された。またこれに先立つ2011年8月に政党法および選挙法が制定・施行され、複数政党制が導入された。ただバアス党は、現在もアラブ社会主義連合党やシリア共産党などの諸政党と協力関係にあり、与党連合「国民進歩戦線」(NPF)を結成している(国民進歩戦線議長はバアス党書記長)。バアス党は50年以上にわたる一党独裁により、党組織が巨大化して党員は350万人を数え、衛星政党の党員と合算すると400万人に達する。また非公認政党はクルド人勢力を中心に多数存在するが、非合法指定を受けた政治組織はムスリム同胞団のみである。なお、ムスリム同胞団はバアス党政権と激しく対立しており、同国の法律によって構成員への極刑が定められている。
司法
編集司法制度はフランス法およびオスマン帝国法を基礎としている。イスラーム法は家族法の分野で用いられている。大統領を議長とする最高司法評議会が置かれており、裁判所判事の任命にあたる。最高司法機関は最高憲法裁判所である。
国家安全保障
編集シリアはアラブ世界ではエジプトに次ぐ軍事大国として知られる。シリアは徴兵制が敷かれており、男子の兵役義務がある。また敵国であるイスラエルの侵攻を防ぐために旧東側諸国の武器を重装備しており、おもに友好国であるロシアから武器を調達している。
シリア軍の総兵力は現役約32万人、予備役は50万人である。陸軍の総兵力は約21万5,000人、海軍総兵力約5,000人に加えて予備役約4,000人、空軍総兵力約7万人、防空軍総兵力約4万人である。また、これらの正規軍のほかにイスラエルの侵攻に備えて、ゲリラ戦を行うために複数の民兵が組織されている。
シリアの軍事予算は国家予算の1割を占め、膨大な軍事費のためにシリアの財政を非常に圧迫している。またハマース、ヒズブッラー、PFLPなどのゲリラ組織への資金援助、武器援助などを加えると軍事費はさらに膨大なものとなっている。
国際関係
編集国家の安全保障、アラブ諸国の間での影響力の増大、およびイスラエルからのゴラン高原返還を確実にすることが、バッシャール・アル=アサド大統領の外交政策の主要目的である。対外関係において、アサド政権はバアス党の伝統として「アラブの大義」「パレスチナを含むイスラエルによる全アラブ占領地の解放」を前面に押し出した主張をすることが多い。
シリアは、歴史上の多くの局面においてトルコ、イスラエル、イラク、レバノンなどの地理的・文化的隣国との間で激しい緊張関係を経験してきた。また、サウジアラビアやカタールを中心とした湾岸地域のスンナ派アラブ諸国とは敵対関係にあり、これらの諸国は一貫してイスラム過激派を含むシリアの反政府勢力への支援を行ってきた。21世紀に入り、アサド政権は中東地域で対立関係にあった複数の国家との関係改善に成功した。しかし、イスラエル及び同盟国の米国とは溝が深く、2004年から米国に経済制裁を受けている[11]。
2011年に「アラブの春」がシリアにも波及すると、反政府派を米国が支援し、シリア内戦に突入。その影響から多数の国との外交関係が断絶、あるいは疎遠化しており、国際社会における交流の幅が狭まっている(詳細はシリア内戦に対する国際的な対応を参照のこと)。
シリア内戦が国際関係に与えた影響
編集シリア・バアス党政権は、2011年のシリア内戦勃発を理由にアラブ連盟(2011年)、およびイスラム協力機構(2012年)への加盟資格を停止させられている。また、トルコ、カナダ、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、イギリス、ベルギー、スペイン、および湾岸協力会議加盟諸国は反体制派団体のひとつであるシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認しており、バアス党政権との外交関係が断絶している[21](シリア国民連合を政府承認している国の一覧については該当ページを参照のこと)。
一方、バアス党政権は伝統的な同盟国であるイラン、ロシアと良好な関係を維持し続けており、シリア騒乱に対する軍事的援助を両国から受けている。また、内戦勃発後も友好的な関係を維持している国々として、中国、北朝鮮、アンゴラ、キューバ[22][23]、ベネズエラ[24]、ニカラグア[25]、ブラジル[26]、ガイアナ[27]、インド[28][29][30]、南アフリカ[31][32]、タンザニア[33]、パキスタン[34]、アルメニア,[35]、アルゼンチン、ベラルーシ、タジキスタン[36]、インドネシア[37]、フィリピン[36]ウガンダ[36]、ジンバブエ[36]、キプロス、ギリシャおよびその他諸国[38]があり、アラブ連盟加盟国であるイラク、エジプト(2013年のクーデター以降)、アルジェリア[39]、クウェート[40]、スーダン[41]、レバノン、オマーン[42][43][44]、アラブ首長国連邦(2021年以降)、パレスチナ自治政府、イエメンとも友好関係を維持している。
そのほか、バアス党政権と反体制派のいずれも積極的に支援せず、日本のように在シリア大使館を一時的に閉鎖[45]して両国関係を疎遠にさせている国もある(各国のシリアにおける在外公館の設置・閉鎖状況については、駐シリア外国公館の一覧を参照のこと)。
イスラエルとの関係
編集シリアとイスラエルは1948年5月14日のイスラエル建国とその直後に起きた第一次中東戦争以来、ゴラン高原の領有権、ハマースやヒズボラなどの反イスラエル武装組織への支援、イスラエルが敵国とみなすイランへの協力、シリア自体の核兵器開発疑惑などの理由から、2024年現在に至るまで敵対的な関係が続いている。
両国の最大の対立要因は1967年の第三次中東戦争においてイスラエルがシリアから奪取したゴラン高原の帰属問題で、1967年以来イスラエルはゴラン高原を実効支配し、その主権を主張しているが、シリアはゴラン高原をシリア固有の領土であると主張し、同領土の返還を要求し続けている。イスラエルを除く当事国、および国連のどちらもイスラエルの主張を認めていない。国連安全保障理事会が決議497「イスラエルの(ゴラン高原)併合は国際法に対して無効である」旨を採択し、同地がイスラエルによって不当に併合されたシリア領であるという見解が固定化した。しかし、イスラエル政府は「併合」であると認めていない。シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を争っているが、第四次中東戦争停戦後の1974年以来、武力行使を行っていない。
シリアはイスラエルを牽制するため、1976年以降レバノンに軍を進め以後駐留を続けたが、レバノン国内からの反対(杉の革命)と国際的圧力により、2005年3月に軍と情報機関の完全撤退を表明した。軍は4月12日までに完全撤退した。情報機関の撤退については不明である。レバノンの反シリア派は、同国で頻発する政治テロの犯人はシリアであると非難している。
また、シリアは欧米諸国やイスラエルが「テロ組織」と呼ぶ組織ヒズボラを支援しており、アメリカからは「テロ支援国家」に指定されている。首都ダマスカスにパレスチナ・ゲリラの拠点があり、武器援助や軍事訓練拠点を提供しているとされた。なお、パレスチナガザ地区を支配するムスリム同胞団を母体とするハマースはジハード主義組織であるアルカイダやISIS等と共にアサド政権打倒側に参戦しておりシリア内戦以降はアサド政権と対立関係にある。そのため、ムスリム同胞団の出資国であるカタールはシリアのアラブ連盟への復帰を認めていない唯一の国となっておりハマースとシリアは依然として対立関係にある。同じくムスリム同胞団出身のアラブの春で誕生したエジプトのムハンマド・ムルシー政権もアラブの春で追放されたムバラク大統領と異なり、アサド政権と激しく対立していたが、2013年のクーデターで失脚して誕生したシーシー政権以来は関係が改善している。
2007年9月にはイスラエル軍がシリアの核施設とみられる建造物を越境爆撃した。限定的な空爆はそれ以前から散発的に実施されており、以後もシリア内戦勃発以降も含め複数回実施されたが、2018年2月にはシリア軍がイスラエル軍機を撃墜している。
2011年3月以降のシリア内戦では、イスラエルはシリア軍の化学兵器関連の疑いのある施設やアサド政権支援のためにシリア国内で活動するヒズボラやイスラム革命防衛隊に対することを名目に、何百回も空爆を行っている(国際法上の正当性はないとされる[46])。ただし、実際には限定的ではなく無差別的で、民間人の死傷者も出ている[47][48]。
一方、アサド政権崩壊後の混乱を警戒してか、同政権の崩壊を企図した反体制武装勢力への支援についてはきわめて慎重な姿勢をとっており、2018年7月のアサド政権軍によるゴラン高原隣接地域を含むシリア南西部の平定について「シリアの状況は内戦前に戻りつつある」として、内戦でのアサド政権の勝利がイスラエルにとっても好ましいとの見方を示した。
イラクとの関係
編集隣国イラクをめぐっては、シリア・バアス党とイラク・バアス党の政治対立によって、イラン・イラク戦争ではイラン支持に回り、湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長く続いた。しかし、イラク戦争後アメリカ軍により指名手配された旧イラク・バアス党幹部やイラク国内の混乱から逃れた人々が数多くシリアへ亡命し、受け入れた数は推定120万人に上るとされた。シリア政府が政治亡命したイラク・バアス党員の引き渡しを拒否したことや、イラクで米軍と戦うアル=カーイダなどのテロリストがシリアを経由してイラク国内に流入したことは、米国政府からの強い非難を引き起こした。イラク治安筋によるとダマスカスとラタキアには、外国人テロリストのイラクへの密入国を仲介する者たちがおり、そのほとんどがイラク・シリア国境付近における密貿易で生計を立てていた者であったという。
米陸軍士官学校ウェストポイントはイラク北部のシンジャールで見つかったアル=カーイダの文書を元に報告書を作成した。それによると、現在までにシリアからイラクに入ったテロリストは590人で、約100人のシリア人仲介者がテロリストの密入国を手助けしているという。動機は金銭目的、イスラーム原理主義を支持しているなどの理由であるという。テロリストの出身国は遠くはモロッコ、リビア、アルジェリア、イエメン、近くはサウジアラビアで、彼らは密入国の手数料として2,500ドルを支払い、国境付近に到着すると偽造パスポートを受け取り、地元民の協力とガイドでイラクへと越境している。また、外国人テロリストのほとんどがアラブ諸国出身者であり、アラブ民族主義、あるいは侵略された同胞ムスリムを助けるジハードの遂行のためにイラクへ入国したイスラム過激思想信奉者であるとされる。特に、デリゾール県などのイラク国境地域の住民はイラク北西部に住むスンナ派部族とは親戚関係にあり、ジャズィーラ方言のアラビア語(メソポタミア方言のうち、イラク北西部やシリア東部で話されるもの)を喋るなどイラクとの関係は深く、「外国人の占領下に置かれている同胞」への同情からテロリストを支援しているとされている。
イラクでの戦闘に参加するために、同国へ潜入したイスラム過激思想信奉者のうち著名な人物は、シリア東部デリゾール県出身のアブー・ムハンマド・アル=ジャウラーニーである(ジャウラーニー氏についてはダラア県出身との説もある[49])。当該人物は、シリア内戦における反政府武装勢力の主力たるアル=ヌスラ戦線の指導者となっている[50]。ヌスラ戦線の要員には、米軍占領期のイラクにおいて反米・反シーア派闘争に参加した者たちが多く含まれる。
シリア政府は、2003年の対イラク開戦時には越境する「アラブ人義勇兵」を放置していたが、同年4月以降までに密輸業者を取り締まるなどの対策を講じた。しかし、部族民や地元政府、治安当局者まで業者に賄賂で買収されてしまっており、効果があがっていないとされる。もっとも外国人テロリストの越境数が多かったのは、2004年のファッルージャの戦闘時で、大半がサウジ人であったという[51]。イラク戦争後、シリア国内で統制が強化されたのは、これらの義勇兵にイスラーム過激派が含まれており、シリア・バアス党の政治思想と厳しく対立していたためでもあり、シリア国内の治安への悪影響を減ずるという意図もあった。しかし、シリアは旧イラク・バアス党政権の残党には庇護を加え、米軍をはじめとする占領軍やイラク暫定政権に対する破壊活動を支援したとされる。
またイラクでは、元大統領サッダーム・フセインの出身部族がスンナ派であることに加え、サッダーム旧政権時代の与党であったイラク・バアス党の中核支持層もスンナ派に属し、これがイラク国内で多数派の十二イマーム派を押さえる形になっていた。しかし、シリアでは対照的に、アサド大統領の出身部族はイスラームの少数宗派であるアラウィー派に属し、シリア・バアス党の中核支持層はアラウィー派のほか、キリスト教徒・ドゥルーズ派・イスマーイール派などの少数宗派であり、これらが多数派であるスンナ派を抑える形になっている(ただし、スンナ派であっても世俗主義勢力の一部はバアス党と協力関係にある)。
このため、シリア内戦が勃発したあと、イラク国内で反米・反シーア派闘争を継続していた聖戦と解放の最高司令部およびナクシュバンディー軍を率いる旧イラク・バアス党序列第2位のイッザト・イブラーヒーム(サッダーム・フセインの死刑執行後、イラク・バアス党の地域指導部書記長に就任)は、アサド大統領の打倒を目指してシリア国内で活動するスンナ派の反体制勢力との連帯を表明した。また、イラク西部のスンナ派多数派地域における自由シリア軍支持者によって自由イラク軍というスンナ派武装集団も結成されている。これらの組織は過激派組織ISILとも協調しており、イラク政府軍と戦闘状態にある。逆に、イラク・バアス党政権の崩壊後、十二イマーム派が主体となったイラク政府は、ISILや同組織と同盟関係あるスンナ派武装集団の戦闘においてシリア政府と協力関係にある。
シリアは旧イラク・バアス党政権の残党に庇護を与えていたが、一様な支援ではなく、イラク・バアス党側においてもイッザト・イブラーヒームはイランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。また、イラク・バアス党はサッダーム・フセインの死によって路線対立に歯止めが利かなくなり、一部の党幹部が非主流派グループを形成し、イブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い元党軍事局員のムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新指導者に選出した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行い、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。ユーニス派による内訌と党分裂の事態に際して、イブラーヒームは声明を発し、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難している[52]。イブラーヒームはシリア政府との協働に懐疑的姿勢を崩さず敵視しており、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別した。しかし対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。
現イラク政府の暴力的転覆によるイラク・バアス党の政権奪取を重視している聖戦と解放の最高司令部やナクシュバンディー軍を始めとするイブラーヒーム派に対し、アル・アウダのようなユーニス派は恩赦や国外へ逃れたバアス党員の本国帰還によるイラク・バアス党の政治的再建を重視している(アル・アウダの結成は2003年であり、当初は積極的武力闘争路線であったがのちに方針を転換した)。また、イブラーヒーム派は闘争の過程でスーフィズムの紐帯を利用したほか、ジハード主義者と共闘するなど宗派主義的傾向を強めた(ただし、これは軍事的手段のひとつとして用いた便宜的なものであり、政治的には世俗主義を維持していた)が、ユーニス派は前者に比してさらに世俗主義的傾向が色濃く汎アラブ主義への回帰はより強固であった。これによって、ユーニス派は十二イマーム派が多数を占めるイラク南部における支持獲得に成功し、上位の指導層はスンナ派が占めているとはいえ、組織の中間層にはシーア派が多く存在するなど、旧来の支持基盤であるスンナ派多数地域での構成員獲得を目指すイブラーヒーム派とは対照的である。シリア政府はユーニス派を通じてイラクへの影響力拡大を図っていたのだった。また、恩赦を呼びかけるユーニスらに対してヌーリー・マーリキーは拒否する姿勢を崩さなかったが、マーリキーの退陣後、イラク首相に就任したハイダル・アル=アバーディは、穏健派であるユーニスとの和解に対して妥協的である。
また、当初は十二イマーム派が主導する現イラク政府との戦いにおいてISILと共闘していたイブラーヒーム派だったが、支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、イッザト・イブラーヒームの率いる武装組織は、イラク政府との闘争も依然継続し、翌2015年4月中旬、領袖のイッザト・イブラーヒームがイラク政府軍およびシーア派武装組織との戦闘で死亡した。イブラーヒーム派がISILとの協力を停止し(スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、これらの元党関係者はISILとの同盟関係が決裂した際、反対にイブラーヒーム派の攻撃に加担した)、イブラーヒーム本人が戦死するなか、イラク政府はISILとの戦いを続けるうえで、イラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している[53]。
イラン・イスラーム共和国との関係
編集イラク・��アス党政権との対立関係や、シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権であることから、イラン・イラク戦争ではシーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、欧米西側諸国との対立等で利害が一致する点が多い。シリア内戦ではイランは一貫してアサド政権を支持しており、資金や物資に留まらず革命防衛隊を援軍として送るなど直接・間接にアサド政権を支援しているため、内戦勃発以降は政治面のほか、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
近年では、イランのほか、ベネズエラ、スーダン、キューバなどの反米路線の国との関係を強化している。
トルコ共和国との関係
編集シリアは隣国トルコ共和国のハタイ県を固有の領土であると主張している。2000年のバッシャール・アル=アサドの大統領就任後は両国の関係はクルド人を封じ込む利害が一致していることで改善していたが、2011年にシリア内戦が勃発すると、ムスリム同胞団と関連の深いエルドアン政権はアサド政権打倒目的で自由シリア軍をはじめ反体制武装勢力を積極的に支援するなど対立関係にある。トルコの反体制派支援に対しアサド政権はシリア北部のクルド人勢力(クルド人民防衛隊、YPG)と協調し、同国北東部の自治を事実上黙認する方針をとったため、国内にクルド人問題を抱えるトルコは2016年と2018年にシリアのクルド人地域(ロジャヴァ)に対する越境攻撃を実施した。特に2018年の越境攻撃時にはアサド政権が反体制派への勝利をほぼ確定的にし、余裕が出た戦力をYPGへの援軍として送ったためトルコ軍との直接戦闘に至り、両国の対立は激化の一途をたどった。しかしながら、アサド政権の勝利が確定した中で、クルド人地域への統治という共通の目的をにらみ利害が一致しはじめ、エルドアン政権とアサド政権との関係和解の方向に向かっている[54]。
ソビエト連邦及びロシアとの関係
編集独立後のシリアは、1957年にソ連との間に経済技術援助協定が締結されたことに始まり、1958年には同じく親ソ路線を掲げていたナセル政権下のエジプトと合併したアラブ連合共和国期、1961年にエジプトとの連合を解消しシリア・アラブ共和国として再独立した後の、1963年3月8日革命以来今日まで続くバアス党政権期を通して、一貫して親ソ・親露路線を外交の基盤としている。 ハーフィズ・アル=アサド政権時代の1980年には、外交や兵器の輸入・その他技術の導入などの親ソ路線から更に進み、ソビエト・シリア友好協力条約が締結され、軍事的に同盟関係となっている。 この同盟関係はソ連崩壊後もロシア連邦が引き継ぎ、ロシアは新鋭の防空兵器や弾道ミサイルなど、さまざまな武器・兵器を販売するなどシリアにとって最大の武器援助国となっている。また独立国家共同体(CIS)諸国以外で唯一のロシアの軍事施設がある[55](タルトゥース海軍補給処、ラタキア近郊のフメイミム空軍基地など)。
シリア危機に際し、2013年9月9日にプーチン政権は米国によるシリア侵攻を回避すべくロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を通してシリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアの化学兵器禁止条約批准を提案した[56]。そして、9月12日にシリアのアサド大統領はさらに批准後の1か月後に化学兵器情報を提供することにも同意した[57]。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾き、アレッポやデリゾールといった主要都市を巡る攻防を政府軍が制し、内戦の帰趨を決する決定的な影響を与えた。
朝鮮民主主義人民共和国との関係
編集朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とはハーフィズ・アサド政権時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの北朝鮮製兵器の買い手でもある。共同の核開発計画も行っているとされ、2007年にはイスラエル空軍が核開発施設と見られる建物を爆撃した。
シリアは北朝鮮との友好関係を考慮し、大韓民国と国交を有していない。
中華人民共和国との関係
編集中華人民共和国(中国)とはハーフィズの時代からの伝統的友好国であり、軍事交流[58][59]や弾道ミサイル[60]などの中国製兵器の買い手でもある。1990年代にシリアに小型の原子炉を売却した際はイスラエルやアメリカから懸念された[61]。経済的にはシリア最大の貿易相手国ともされ[62]、2つのシリア最大の産油企業の大株主であり[63]、2011年から国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い[64]。
アサド大統領も2004年6月に訪中して中国の胡錦濤国家主席と会談を行うなど、中国との関係を重視している[65]。シリアは中露主導の上海協力機構への加盟も申請している[66]。
アメリカ合衆国との関係
編集アメリカ合衆国はシリアが1990年の湾岸戦争で多国籍軍に参加し、1991年にアメリカ合衆国政府が主催した中東和平マドリード会議以後、アメリカ合衆国政府が提案する中東和平プロセスを支持し、アメリカ合衆国政府が主導した国連安保理決議に基づいて2005年にレバノンから軍を撤退させたが、アメリカ合衆国政府はシリアがレバノンに軍を進駐させた1976年当時からシリアを「テロ支援国家」と認定し、2004年以後は経済制裁を実施、2005年以後は在シリア大使を帰国させている[67]。
アラブの春では反体制派を支援し、シリア内戦になると、2013年9月5日にアメリカ合衆国上院外交委員会はシリアの化学兵器使用を理由に軍事行動を承認したが、議会承認なきままアメリカ軍はシリア侵攻の攻撃態勢に入っていた[68][69][70]。2014年9月に湾岸諸国とともに空爆が開始されたが、このときの攻撃対象は、内戦下で増長したISILとされた[71]。それでも、安保理決議なしでの空爆は、国際法違反だとされる。2017年4月、化学兵器使用疑惑を理由に、初の政府軍を標的とするミサイル攻撃が行われた[72]。2018年10月からシリア領内の油田を防衛すると主張し、デリゾール県やハサカ県の油田地帯を中心に違法駐留を開始。2019年10月、ドナルド・トランプ米大統領は、エクソンモービルを含む米石油メジャーにシリアで油田操業を担わせる可能性に言及した。これについて、法律やエネルギー業界の専門家からは、戦争犯罪で非倫理的などという批判の声が上がった[73]。2022年2月、シリアの石油鉱物資源省は、国内で生産される原油の80%以上が米国によって盗奪されていると発表した[74]。
日本国との関係
編集シリア戦争の危機に際し、安倍晋三政権は日本の同盟国である米国のシリア侵攻に対しては反対を表明してはいない[75]。菅義偉官房長官は2013年8月29日の記者会見で、シリア政府による化学兵器を使用の根拠を問われ「さまざまな具体的情報があるが、関係国とのやり取りなので控える」としている[76]。
2012年5月、日本政府はモハンマド・ガッサーン・アルハバシュ駐日シリア大使に国外退去勧告を行う一方、シリア政府も翌6月、鈴木敏郎駐シリア大使にペルソナ・ノン・グラータを通告するなど、相互に大使の追放処分を行った[77]。
地方行政区分
編集シリアには13の県がある。
- ダマスカス県
- リーフ・ディマシュク県(ダマスカス郊外県)
- クネイトゥラ県 (クネイトゥラ)
- ダルアー県(ダルアー)
- スワイダー県 (スワイダー)
- ホムス県(ホムス)
- タルトゥース県(タルトゥース)
- ラタキア県(ラタキア)
- ハマー県(ハマー)
- イドリブ県(イドリブ)
- アレッポ県(アレッポ)
- ラッカ県(ラッカ)
- デリゾール県(デリゾール)
- ハサカ県(ハサカ)
このうち、シリア内戦以降事実上政府の管轄が及んでいないクルド人自治区としてロジャヴァ・クルド人自治区がある。アレッポ県、ラッカ県、ハサカ県の一部にまたがって設立されている。シリア政府による公式な自治は認められていないが、事実上の黙認状態となっており政府軍との戦闘は起きていない。一方、トルコ政府とは交戦状態となっている[78]。
地理
編集東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部ではトルコと、東部ではイラクと、南部ではヨルダンと、西部ではイスラエルやレバノンとそれぞれ国境を接している。
国土のうち西部の地中海沿岸部には平野が広がっており、南部は肥沃な土地が広がっており、国内農業のほとんどを負担している。北部は半乾燥地帯、中部はアンチレバノン山脈が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。国内最高峰はヘルモン山(2,814メートル)。国土を北から南にユーフラテス川が、南から北にオロンテス川が流れている。
気候は地中海沿岸部は典型的な地中海性気候(Cs)で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨である。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり(BS)、イラク国境周辺は砂漠気候(BW)となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られ、時に数十センチに達する大雪となることもあるなど季節ごとの差が激しい。ダマスカスの年平均気温は5.8℃(1月)、26.5℃(7月)、年降水量は158.5ミリ。
経済
編集IMFの統計によると、内戦が本格化する前の2010年のGDPは600億ドル。1人あたりのGDPでは2,807ドルで、中東では低い水準であり、隣国のイラクやヨルダンよりも1,000ドル以上低い数値である[2]。シリア内戦後は急落し、2010年から2017年にかけて、GDPは70%以上減少したとされる[79]。
シリアの産業は、バアス党の強力な計画経済により農業、商工業、鉱業ともに偏りがなくバランスが取れた形となっており、石油資源にも恵まれているが、米国による禁輸措置もあり経済は低迷状態が続いていた。2004年時点で政府発表の国内失業率は20%を超えており、中華人民共和国の改革開放を手本として市場経済の導入を計り、外国企業の投資受け入れやインターネット導入を進めていた。しかし2011年に勃発した内戦により経済は深刻な影響を受けており、国連の推定では2014年時点でGDPは40%縮小、国内の労働人口500万人のうち約半数が失業状態にあり、国民の4分の3が貧困状態に陥っていると考えられている[80]。
歴史
編集独立直後の主産業は農業であった[81]。しかし、農業従事者の多くは小作人だったため、生活はほとんど向上しなかった。1960年代になると政権を握ったバアス党は社会主義的政策を採り、土地改革と主要産業の国有化、外国投資により、インフラをはじめとする大規模な開発を成功させた。また、産業の私的部門を推奨する資本主義面も見せた。ただし、情勢の不安定さと中東戦争での敗北により、経済は低迷した。[82]
1970年に政権を掌握したハーフィズ・アル=アサドは、油田開発と自由化政策を採り、特に73から74年にかけての原油価格の高騰と合わせて経済成長を成功させた[81]。また、より石油資源の豊富なアラブ諸国で働くシリア人からの送金の増加や、アラブ諸国をはじめとする海外からの援助の増加も、シリアの好景気に拍車をかけた[81]。70年代末には、シリア経済は従来の農業を中心とした経済から、サービス業、工業、商業を中心とした経済へと変化していた。灌漑、電力、水道の整備、道路建設事業、医療サービスや教育の地方への拡���などに巨額の支出が行われ、繁栄に貢献した。しかし、財政と貿易の両面で赤字が拡大し、その財源を海外からの援助や補助金に依存する状態が続いた。また、アラブ・イスラエル紛争の最前線に位置するシリアは、中東政治の影響を受けやすく、増大する国防費をアラブの援助移転とソ連の援助に頼っていた[82]。
1980年代に入ると、第2次オイルショックや干ばつ、在外シリア人からの送金減などにより、減速した[82]。
2000年にハーフィズの息子のバッシャール・アル=アサドが大統領になると、経済の近代化と自由化が推し進められた。政府の新自由主義的改革は、貿易の活発化と民間部門の活性化に貢献し、安定した経済成長が続いた。一方、格差拡大や公共サービスの低下、汚職の露骨化などを伴い、アラブの春へと繋がる国民不満の増加につながったとされる[83]。
シリア内戦勃発後は、2010年から2017年までマイナス成長となり[84]、GDPは70%以上減少したとされる[79]。ISILが勢力を失い、少し落ち着いた2018年は微増した。20年に深刻化した隣国レバノンの経済危機や米国の新たな対シリア制裁法が影響し、通貨シリアポンドの価値は対米ドルで1年前の半分以下になり、急激なインフレが起きた[85]。
2021年にNGOワールド・ビジョンが発表した推計では、内戦による経済損失は計1兆2000億ドルに上るとされる[85]。シリア石油鉱物資源省によると、東部地域を占領する米国とその側の勢力により、1日平均7万バレルが窃取されている問題もある[86]。
国民
編集人口2,200万人のうち、2015年時点では国内避難民として少なくとも760万人以上が居住地を放棄して国内移動を行っているほか[87]、約400万人が難民として国外へ流出している。シリア難民の最多流出国はトルコ(213万人)、次いでヨルダン(140万人)、レバノン(119万人)となっている。
民族
編集住民は、アラブ人が90%で、クルド人が8%ほど、そのほかにアルメニア人、ギリシャ人などがいる。アラブ人の中にはシリア語を母語とする部族もいるため民族性も多様化している。少数民族としてネストリウス派(アッシリア人)、北コーカサス系民族、南トルコ系民族もいる。
言語
編集言語は現代標準アラビア語が公用語である。そのほかにもアラビア語の方言(レバント方言、イラク方言、ナジュド方言、北メソポタミア・アラビア語)、シリア語(典礼言語として)、クルド語、アルメニア語、アゼルバイジャン語、現代アラム語(アッシリア現代アラム語、現代西アラム語)が使われる。さらにフランス委任統治領時代の影響でフランス語も使われているが、隣国レバノンと異なり一部エリート層の使用に限られるなど通用度は高くない。
宗教
編集宗教は、イスラム教スンナ派が約70%。他のイスラム教の宗派(アラウィー派、ドゥルーズ派、イスマーイール派、十二イマーム派などがあわせて約20%、これらの少数宗派はすべてシーア派とみなす場合もあるが、アラウィー派とドゥルーズ派をシーア派に含めない場合もある。
系統不明瞭なアラウィー派が現在シーア派の一派として扱われるのは、1973年にシリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドルが、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発したことによる。そして、ドゥルーズ派はイスマーイール派から分派した宗派である。しかし、アラウィー派とドゥルーズ派の教義はグノーシス主義や神秘主義の強い影響を受けており、イスラーム教とさえみなされない場合もあるなど、スンナ派や十二イマーム派からの厳しい異端視に晒されてきた。また、イスマーイール派もオスマン帝国時代に弾圧を受けた。
キリスト教(非カルケドン派のシリア正教会、東方正教会のアンティオキア総主教庁、東方典礼カトリックのマロン典礼カトリック教会など)は約10%である。
そのほかには、アレヴィー派やヤズィード派などの少数宗派があり、アレヴィー派はトルコマン人によって、ヤズィード派はクルド人によって信仰されているが、併せて約1%ほどである。シリア国内の人口比で約8%を占めるクルド人のほとんどはスンナ派を信仰しており、ヤズィード派を信仰するものはごく一部である。
元来、都市部に住む富裕層にはスンナ派が多く、これらの名望家層はオスマン帝国時代から政治エリートとして大きな影響力を誇っていた。第一次世界大戦後、新たな支配者としてシリアを委任統治したフランスはスンナ派有力者たちの影響力を押さえ、統治を円滑化するために少数宗派を優遇し、スンナ派以外の諸宗派に政治や軍事への門戸を開いた。また、同じスンナ派であっても都市部の有力者達は相互に姻戚関係で結びつき、その特権意識から農村部に住む人々や貧困層を「大衆」と呼んで蔑むなど、大きな格差が存在していた。都市部に住むスンナ派エリート層によって政治から排除されてきた人々は、シリア独立後、バアス党や共産党などの左派政党の政治運動へ支持・共鳴を示した。左派政治組織の支持拡大に対して、保守的な人々はムスリム同胞団との結びつきを強めた。
婚姻
編集イスラム教徒の女性は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)一方、改姓する女性もいる[88]。
教育
編集シリアの教育は小学校6年間、中学校3年間、高等学校3年間の6・3・3制で小学校の6年間が義務教育であり、生徒の80%がイスラム教徒のため男女共学の高校は存在しないとされる[89]。
交通
編集鉄道
編集シリア国鉄が運行されており、路線総延長は2,423キロに及び、アラブ諸国の中では数少ない鉄道網が整備されている国である。ダマスカス鉄道駅からトルコのイスタンブールへの直通列車も運行されていた。しかしながら2012年以降は内戦で運行停止状態となっている。
航空
編集ダマスカス国際空港、アレッポ国際空港、バーセル・アル=アサド国際空港などの国際空港があり、シリア・アラブ航空によって運航されている。
文化
編集シリアは古代より文明が栄えた土地のため、また各文明の交流地点のため高度な文化が発達しており、国内の各地にアッシリア帝国時代の遺跡が点在する。また、西洋風の町並や服装も浸透している。さらに反米および反イスラエル国家であるが、首都・ダマスカスにはケンタッキーの店舗が存在する[注釈 1]。
食文化
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文学
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音楽
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映画
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世界遺産
編集シリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する[90][91]。
祝祭日
編集日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | عيد راس السنة الميلادية | |
3月8日 | 3月8日革命記念日 | ثورة الثامن من اذار | バアス党による権力掌握を記念する |
3月21日 | 母の日 | عيد الأم | |
4月17日 | 独立記念日 | عيد الجلاء | フランス軍のシリア完全撤退の日を祝う |
グレゴリオ暦のイースター | عيد الفصح غريغوري | 新暦のイースター。移動祝日 | |
ユリウス暦のイースター | عيد الفصح اليوليوسي | 移動祝日 | |
5月1日 | メーデー | عيد العمال | |
5月6日 | 殉国者の日 | عيد الشهداء | 1916年、オスマン帝国のアフメト・ジェマル・パシャが シリア民族主義者多数を処刑した記念日 |
10月6日 | 10月解放戦争記念日 | حرب تشرين التحريرية | 第四次中東戦争の開戦記念日 |
12月25日 | クリスマス | عيد الميلاد المجيد | |
犠牲祭 | عيد الأضحى | 移動祝日 | |
断食明け大祭 | عيد الفطر | 移動祝日 | |
預言者生誕祭 | المولد النبوي | 移動祝日 |
スポーツ
編集サッカー
編集シリア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1966年にプロサッカーリーグのシリア・プレミアリーグが創設された。リーグ開始以降アル・ジャイシュSCが圧倒的な強さを誇っており、5連覇を含むリーグ最多17度の優勝を達成している。
シリアサッカー協会(SFA)によって構成されるサッカーシリア代表は、これまでFIFAワールドカップへの出場経験はない。AFCアジアカップには7度出場しており、2023年大会ではベスト16の成績を収めた[92]。
オリンピック
編集シリアはオリンピックには1948年ロンドン五輪で初参加した。それ以降は中東戦争などの影響で参加と不参加が続いたが、1980年モスクワ五輪以降は参加を続けている。しかし冬季オリンピックへの参加経験はない。2021年東京五輪では、ウエイトリフティング男子109kg超級でマン・アサードが、シリア選手として4大会ぶりのメダルを獲得した。
著名な出身者
編集脚注
編集注釈
編集出典
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- ^ “イランがPK戦でシリアに勝利、日本との準々決勝へ アジア杯”. AFPBB News (2024年2月1日). 2024年2月3日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 日本政府
- その他