ホショ・ツァイダム碑文

キュル・テギン碑文から転送)

ホショ・ツァイダム碑文(ホショ・ツァイダムひぶん)は、8世紀に建てられた東突厥第二可汗国時代の碑文で、発見地であるホショ・ツァイダム(: Khöshöö Tsaidam)からその名がつけられた。ホショ・ツァイダム碑文にはビルゲ・カガン(Bilgä Qaγan、毘伽可汗)を称えた碑文と、キュル・テギン(Köl Tägin、Kül Tegin、闕特勤)を称えた碑文の2種類あるので、それぞれビルゲ・カガン碑文キュル・テギン碑文と呼ばれる。また、オルホン川流域にあることからオルホン碑文とも呼ばれる。

ビルゲ・カガン碑文のレプリカ(アンカラガズィ大学)。

特徴

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表面(東面)には突厥文字テュルク語で初代ブミン・カガンからビルゲ・カガン、キュル・テギンまでの歴史が刻まれており、裏面(西面)には玄宗から贈られた漢文が刻まれている。この碑文によって多くの民族名や地名のテュルク語音を知ることができ、古代テュルク語を復元する上での重要な資料となっている。

発見と解読

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1889年ロシアニコライ・ヤドリンツェフ英語版Николай Михайлович Ядринцев)がオルホン河畔のホショ・ツァイダムで発見。1893年にはデンマークの文献学者ヴィルヘルム・トムセンによって解読された。

内容

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冒頭に近い部分にみえる一節は、突厥可汗国の建設を描く。

上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン・カガンイステミ・カガン[1][2]と坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。

これにつづけて、その後の可汗、重臣たちの「無知」、首長と民衆との争い、それらにつけ込んで中国の弄した策略などのため、第一可汗国が瓦解して突厥諸族が羈縻(きび)支配に服するに至ったこと、そこからイルティリシュ・カガン[3]によって突厥が再興されたこと、などを描き、イルティリシュ・カガン時代からビルゲ・カガンキュル・テギン兄弟[4]の死に至るまでの彼らの功績を、それぞれの年齢、または十二支獣紀年によって編年して記し、彼らがいかに「賢明」で「勇気ある」「猛き」遊牧騎馬民族の英雄であったか、そして「死すべかりし民」を「生かし養い」、「裸の民」を「衣服持てる者」とし、「貧しき民」を「富裕」たらしめるのにどれほど力を尽くしたか、を讃えている。[5]

あるソ連の学者はこれを「一種の宣伝文」「訓戒の文章」と評し、クリャシュトルヌィは「2世紀を経たのちも、すでに過ぎ去った諸事件に関する追憶を保持する伝承は、歴史的というよりはむしろ、叙事詩的と呼びうるかもしれない」と評した。[6]

建立時期と執筆者

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キュル・テギン碑文とビルゲ・カガン碑文はそれぞれ、闕特勤毘伽可汗の死後に建立されたと推測されるため、その年は彼らの死の翌年、すなわち732年735年であると思われる。また、この両碑文の執筆者はビルゲ・カガン、キュル・テギン兄弟の甥にあたるヨルリグ・テギンであるため、多くの部分で共通している。

イメージ

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脚注

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  1. ^ ブミン・カガン古テュルク語:          - Bumïn Qaγan)。イステミ・カガン古テュルク語:           - Istemïi Qaγan)。
  2. ^ たいていは伊利可汗室点蜜に比定されるが、内田吟風は、『オルホン碑文』にあるIstämiとは別人で、室点蜜(イステミ)はそれにあやかってつけられた名前であるとしている。また、松田寿男は「室點密可汗、イステミカガンの名は、唐初において中国人に知られた形跡がなく、突厥の分裂後に突厥人によって考えられた伝説的君主の名であり、いわゆる室點密可汗とは、メナンデルの記すシルジブールに求めなければならない」とした。
  3. ^ イルティリシュ・カガン古テュルク語:           - İltiriš Qaγan)。
  4. ^ ビルゲ・カガン古テュルク語:           - Bilgä Qaγan)、キュル・テギン古テュルク語:         - Kül Tigin)。
  5. ^ 三上、護、佐久間 1974 p225-226
  6. ^ 三上、護、佐久間 1974 p226

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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