道弁(どうべん・道遍、嘉応元年(1169年)-没年不詳)は、鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎(石川とも、諱不詳)。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣のであったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏(石川氏)の一員であったと見られている。 初めは鎌倉幕府の御家人であったが、建久4年(1193年)に熊谷直実が法然の許で出家したという話を知って、上洛して法然に弟子入りして出家した。この時25歳であったという(『円光大師行状画図翼賛』)。その後、数年間法然の許に近侍しており、親鸞が『』において「聖人根本ノ弟子」の1人と評した「シノヤ」とは「渋谷」すなわち道弁のことであったと考えられている。 その後、相模国に帰国して法然の教えを広めたほか、上総国周東にいたらと宗義に関する往復問答を行って、在阿が良忠に弟子入りする仲介をしたとされている。 嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の時、道弁は京に駆けつけた。そして、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るため、蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)兄弟、法阿(東胤頼)などの出家者や六波羅探題の武士団らとともに、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。

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  • 道弁(どうべん・道遍、嘉応元年(1169年)-没年不詳)は、鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎(石川とも、諱不詳)。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣のであったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏(石川氏)の一員であったと見られている。 初めは鎌倉幕府の御家人であったが、建久4年(1193年)に熊谷直実が法然の許で出家したという話を知って、上洛して法然に弟子入りして出家した。この時25歳であったという(『円光大師行状画図翼賛』)。その後、数年間法然の許に近侍しており、親鸞が『』において「聖人根本ノ弟子」の1人と評した「シノヤ」とは「渋谷」すなわち道弁のことであったと考えられている。 その後、相模国に帰国して法然の教えを広めたほか、上総国周東にいたらと宗義に関する往復問答を行って、在阿が良忠に弟子入りする仲介をしたとされている。 嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の時、道弁は京に駆けつけた。そして、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るため、蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)兄弟、法阿(東胤頼)などの出家者や六波羅探題の武士団らとともに、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。 (ja)
  • 道弁(どうべん・道遍、嘉応元年(1169年)-没年不詳)は、鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎(石川とも、諱不詳)。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣のであったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏(石川氏)の一員であったと見られている。 初めは鎌倉幕府の御家人であったが、建久4年(1193年)に熊谷直実が法然の許で出家したという話を知って、上洛して法然に弟子入りして出家した。この時25歳であったという(『円光大師行状画図翼賛』)。その後、数年間法然の許に近侍しており、親鸞が『』において「聖人根本ノ弟子」の1人と評した「シノヤ」とは「渋谷」すなわち道弁のことであったと考えられている。 その後、相模国に帰国して法然の教えを広めたほか、上総国周東にいたらと宗義に関する往復問答を行って、在阿が良忠に弟子入りする仲介をしたとされている。 嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の時、道弁は京に駆けつけた。そして、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るため、蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)兄弟、法阿(東胤頼)などの出家者や六波羅探題の武士団らとともに、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。 (ja)
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  • 道弁(どうべん・道遍、嘉応元年(1169年)-没年不詳)は、鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎(石川とも、諱不詳)。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣のであったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏(石川氏)の一員であったと見られている。 初めは鎌倉幕府の御家人であったが、建久4年(1193年)に熊谷直実が法然の許で出家したという話を知って、上洛して法然に弟子入りして出家した。この時25歳であったという(『円光大師行状画図翼賛』)。その後、数年間法然の許に近侍しており、親鸞が『』において「聖人根本ノ弟子」の1人と評した「シノヤ」とは「渋谷」すなわち道弁のことであったと考えられている。 その後、相模国に帰国して法然の教えを広めたほか、上総国周東にいたらと宗義に関する往復問答を行って、在阿が良忠に弟子入りする仲介をしたとされている。 嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の時、道弁は京に駆けつけた。そして、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るため、蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)兄弟、法阿(東胤頼)などの出家者や六波羅探題の武士団らとともに、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。 (ja)
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