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- 天正かるた(てんしょうかるた)とは、室町時代末期にポルトガルの貿易船の船員によって日本へ伝えられたカードゲームを、1573年から1592年までの天正年間に国産化したもので、いわゆるトランプの一種である。また、これを使った「テンショ」「テンシュ」など、めくり系遊技法の呼称にもなっている。カルタとは、ポルトガル語で「カード」を意味する外来語で、「骨牌」「加留多」「加留太」「加留田」「加類多」「賀留多」「可留多」「歌留多」「刈田」「軽板」「博冊」「樗蒲」と様々な漢字が当てられた。 棍棒(波宇,巴宇・パウ/花・ハナ/青・アオ)、刀剣(伊須波多・イスパーダ/伊須,伊寸・イス/赤・アカ)、金貨(於宇留,於留,遠々留・オウル/太鼓・タイコ)、聖杯(古津不,骨扶,乞浮・コップ/唇・クチビル)の4種類の紋標(スート)、1(豆牟・ツン/虫・ムシ/ピン)から9までの数札と女王(ソウタ/十・ジュウ)、騎馬(カバ/馬・ウマ/牟末・ンマ)、国王(レイ/切,岐利,桐・キリ/腰・コシ)の絵札で構成される計48枚。初期のタイプは、イタリア、スペイン、ポルトガルで使用されていたラテンタイプのカードデザインの模造であったが、国王や女王の札に描かれていた盾は認識されずに消えている。やがて、国王や騎馬の鎧兜は日本の武者風の物へと変化させ、75枚の「うんすんかるた」や97枚の「すんくんかるた」のように、紋標や枚数を拡張して多人数に対応したカルタが考案された。 兵庫県芦屋市にある滴翠美術館には、木版刷り手彩色の天正かるたの棍棒の国王の札が1枚だけ所蔵されており、その札の裏面には「三池住貞次」の文字が見られる。1645年(正保元年)頃に俳人の松江重頼によって編纂された俳諧論書���毛吹草』には、筑後の名産物に「三池賀留多(ミイケガルタ)」、1689年(元禄2年)に井原西鶴よって書かれた『一目玉鉾・巻四』にも「三池 立花和泉守殿 此所の名物賀留多」とあり、1716年から1736年までの享保年間に桑林軒によって記された『歓遊桑話』には「諸国名物考に加留太は筑後国三池に始まり、夫より花洛におひて経師細工にて三池筑後屋友貞抔と名付る加留太有しが古代の物故其名も捨ず、然るに其後次第売弘しが、経師細工より其業を別て、后々只一編に今の黒裏加類多と成りぬ。斯て加類多と云、文字を尋に漢字骨牌と書し、和に万葉字を用ひ、今は一向に京都の細工と成て他国に曽而不成。只京都諸国へ売出せる矣」と書かれており、1778年(安永7年)の『校訂 筑後史・巻之六』にも「骨牌、三池村の産なり」と記されていることから、九州の三池(福岡県大牟田市)を日本のカルタ発祥の地として、1991年(平成3年)に三池カルタ・歴史資料館が設立された。 筑後国三池村でカルタが生産された理由としては、1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して、肥前国松浦郡名護屋(佐賀県唐津市)が出兵拠点となり、全国から160を超える大名が集結し在陣したため、最盛期には人口が10万人を超えており、「軍陣心休楽」としてカルタの国内需要に応じたものと考えられる。1595年(文禄4年)に日蓮宗の僧侶、日源上人が故郷の越前国五箇村(福井県大野市)の紙漉きの技術を筑後国溝口村(福岡県筑後市)や八女村(福岡県八女市)の人たちへ伝授していることから、三池ではこの和紙を使ってカルタを製造したものと考えられている。 岐阜市歴史博物館には、硯箱に作り替えられた版木が所蔵されており、この札のサイズは縦7.4センチ×横4.1センチと大判であることから、板木の製造時期は最も古い初期型であると考えられる。そうなると、三池とは別の地域で、初の国産カルタが作られた可能性が高くなるのだが、それを裏付ける文献史料は現在のところ見つかっていない。 大阪市北区にある南蛮文化館には、6枚の札が失われ不揃いではあるが、手描きで製造された天正かるたが所蔵されている。この札のサイズは縦7.3センチ×横4.5センチと硯箱板木の札の大きさに近い。1467年にベルギーで製造されたカルタのサイズが縦9.2センチ×横6.0センチなので、それよりは小型化している。 神戸市立博物館には、重箱に作り替えられた版木が所蔵されており、これにより天正かるた図像の全貌を窺うことができ、三池カルタ・歴史資料館では復刻版を製作して展示している。この札のサイズは縦6.3センチ×横3.4センチであることから、中期型であると考えられている。 2019年(令和元年)、東京都港区のサントリー美術館で6月26日から8月18日まで開催された「遊びの流儀・遊楽図の系譜」では、11枚の札が失われ不揃いではあるが、金色料紙に手描きで着色された個人蔵の天正かるたが公開展示された。この札のサイズは縦5.3センチ×横3.2センチで、現在製造販売されている花かるた(花札)のサイズとほぼ同一であることから、後期型と考えられている。 (ja)
- 天正かるた(てんしょうかるた)とは、室町時代末期にポルトガルの貿易船の船員によって日本へ伝えられたカードゲームを、1573年から1592年までの天正年間に国産化したもので、いわゆるトランプの一種である。また、これを使った「テンショ」「テンシュ」など、めくり系遊技法の呼称にもなっている。カルタとは、ポルトガル語で「カード」を意味する外来語で、「骨牌」「加留多」「加留太」「加留田」「加類多」「賀留多」「可留多」「歌留多」「刈田」「軽板」「博冊」「樗蒲」と様々な漢字が当てられた。 棍棒(波宇,巴宇・パウ/花・ハナ/青・アオ)、刀剣(伊須波多・イスパーダ/伊須,伊寸・イス/赤・アカ)、金貨(於宇留,於留,遠々留・オウル/太鼓・タイコ)、聖杯(古津不,骨扶,乞浮・コップ/唇・クチビル)の4種類の紋標(スート)、1(豆牟・ツン/虫・ムシ/ピン)から9までの数札と女王(ソウタ/十・ジュウ)、騎馬(カバ/馬・ウマ/牟末・ンマ)、国王(レイ/切,岐利,桐・キリ/腰・コシ)の絵札で構成される計48枚。初期のタイプは、イタリア、スペイン、ポルトガルで使用されていたラテンタイプのカードデザインの模造であったが、国王や女王の札に描かれていた盾は認識されずに消えている。やがて、国王や騎馬の鎧兜は日本の武者風の物へと変化させ、75枚の「うんすんかるた」や97枚の「すんくんかるた」のように、紋標や枚数を拡張して多人数に対応したカルタが考案された。 兵庫県芦屋市にある滴翠美術館には、木版刷り手彩色の天正かるたの棍棒の国王の札が1枚だけ所蔵されており、その札の裏面には「三池住貞次」の文字が見られる。1645年(正保元年)頃に俳人の松江重頼によって編纂された俳諧論書『毛吹草』には、筑後の名産物に「三池賀留多(ミイケガルタ)」、1689年(元禄2年)に井原西鶴よって書かれた『一目玉鉾・巻四』にも「三池 立花和泉守殿 此所の名物賀留多」とあり、1716年から1736年までの享保年間に桑林軒によって記された『歓遊桑話』には「諸国名物考に加留太は筑後国三池に始まり、夫より花洛におひて経師細工にて三池筑後屋友貞抔と名付る加留太有しが古代の物故其名も捨ず、然るに其後次第売弘しが、経師細工より其業を別て、后々只一編に今の黒裏加類多と成りぬ。斯て加類多と云、文字を尋に漢字骨牌と書し、和に万葉字を用ひ、今は一向に京都の細工と成て他国に曽而不成。只京都諸国へ売出せる矣」と書かれており、1778年(安永7年)の『校訂 筑後史・巻之六』にも「骨牌、三池村の産なり」と記されていることから、九州の三池(福岡県大牟田市)を日本のカルタ発祥の地として、1991年(平成3年)に三池カルタ・歴史資料館が設立された。 筑後国三池村でカルタが生産された理由としては、1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して、肥前国松浦郡名護屋(佐賀県唐津市)が出兵拠点となり、全国から160を超える大名が集結し在陣したため、最盛期には人口が10万人を超えており、「軍陣心休楽」としてカルタの国内需要に応じたものと考えられる。1595年(文禄4年)に日蓮宗の僧侶、日源上人が故郷の越前国五箇村(福井県大野市)の紙漉きの技術を筑後国溝口村(福岡県筑後市)や八女村(福岡県八女市)の人たちへ伝授していることから、三池ではこの和紙を使ってカルタを製造したものと考えられている。 岐阜市歴史博物館には、硯箱に作り替えられた版木が所蔵されており、この札のサイズは縦7.4センチ×横4.1センチと大判であることから、板木の製造時期は最も古い初期型であると考えられる。そうなると、三池とは別の地域で、初の国産カルタが作られた可能性が高くなるのだが、それを裏付ける文献史料は現在のところ見つかっていない。 大阪市北区にある南蛮文化館には、6枚の札が失われ不揃いではあるが、手描きで製造された天正かるたが所蔵されている。この札のサイズは縦7.3センチ×横4.5センチと硯箱板木の札の大きさに近い。1467年にベルギーで製造されたカルタのサイズが縦9.2センチ×横6.0センチなので、それよりは小型化している。 神戸市立博物館には、重箱に作り替えられた版木が所蔵されており、これにより天正かるた図像の全貌を窺うことができ、三池カルタ・歴史資料館では復刻版を製作して展示している。この札のサイズは縦6.3センチ×横3.4センチであることから、中期型であると考えられている。 2019年(令和元年)、東京都港区のサントリー美術館で6月26日から8月18日まで開催された「遊びの流儀・遊楽図の系譜」では、11枚の札が失われ不揃いではあるが、金色料紙に手描きで着色された個人蔵の天正かるたが公開展示された。この札のサイズは縦5.3センチ×横3.2センチで、現在製造販売されている花かるた(花札)のサイズとほぼ同一であることから、後期型と考えられている。 (ja)
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