桂元親
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄2年(1559年)から永禄5年(1562年)までのいずれかの年の8月29日 |
戒名 | 桂山義芳[1] |
官位 | 兵部丞 |
主君 | 毛利元就→隆元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流桂氏 |
父母 | 父:桂元澄[2]、母:福原広俊の娘[2] |
兄弟 | 元延[2]、元貞[2]、元親、景信[2]、女(冷泉元豊室)[2]、広繁[2]、元盛[2]、元時[2] |
妻 | 正室:柏巌寿操[1] |
子 | 就宣[3]、広信[4] |
桂 元親(かつら もとちか)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は桂元澄[2]。子は桂就宣[3]、桂広信[4]。官途名は兵部丞[5][2]。
生涯
[編集]毛利氏庶流の重臣である桂元澄の三男として生まれる[2][6]。
天文17年(1548年)の神辺合戦における備後国の国人・湯浅元宗の尽力に感謝する6月25日付けの毛利元就の書状を届ける使者を務める[7]。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて毛利元就の命により井上元兼をはじめとする安芸井上氏の一族・与党が粛清された直後の同年7月20日に書かれ、毛利氏家臣238名が連署して毛利氏への忠誠を再確認した起請文では、26番目に「桂兵部丞元親」と署名している[注釈 1][8]。
年不詳ではあるが、いくつか残されている毛利家近習衆の具足注文の一つに元親の名も記されているものがあり、元親の具足数は23両の赤川元秀、17両の国司元相、10両の長井四郎三郎に次ぐ8両と記されている[注釈 2][9]。また、騎馬衆や走衆の構成を記した文書には走衆の2番目に「桂兵部丞」と記されている[注釈 3][10]。
天文24年(1555年)10月1日の厳島の戦いで陶晴賢らの軍を打ち破った毛利元就は周防国への進攻を開始して防長経略が始まる[11]と、元親もそれに従軍した。
弘治2年(1556年)2月に周防国玖珂郡山代で反毛利の一揆勢が蜂起すると、玖珂郡の高森城に拠る坂元祐と粟屋元通は山代の土豪である三分一主殿允、三分一式部允、三分一刑部允、三分一右衛門尉、舟越通吉、神田隆久、助藤土佐守、助藤左衛門尉らをはじめとして、玖珂郡の志不前、藤屋、阿賀の民衆の援助を得て、一揆の討伐に当たった[12]。しかし、それだけでは兵力不足であるため、毛利元就と毛利隆元は先鋒として志道元保、南方元恵、児玉就方、香川光景、市川経好らを派遣し、続いて福原貞俊や赤川元保らも派遣した[12]。同年2月8日、玖珂郡との郡境を接する熊毛郡屋代や都濃郡中須における一揆勢との合戦で元親は敵を多数討ち取り、翌2月9日に毛利隆元から戦功を賞された[13][14]。同年9月10日に毛利隆元は元親と波多野勝実に���てて、同年春の蓮華山城における活躍を承知し賞する旨の書状を送っている[15]。
弘治3年(1557年)3月15日、瀬戸内海を警戒して大内義長や内藤隆世らの逃走を防止しつつその動向を探っていた小早川水軍の乃美宗勝から、大内義長らが長門国豊浦郡の且山城に籠城したとの報告を防府の本陣にて受けた元就は、直ちに元親、赤川元保、粟屋元親、児玉就忠らを派遣して且山城攻撃を命じた[16]。さらに周防国吉敷郡山口に在陣していた福原貞俊、志道元保をはじめとして、阿曽沼広秀、兼重元宣、山田言輔らにも且山城攻撃を命じ[16]、3月28日には三の丸、続いて二の丸を占領した[17]。4月2日に大内義長は開城したが、翌4月3日に自害に追い込まれて大内氏は滅亡し、防長経略は終結した[18]。
元親は厳島神社に度々馬を寄進しており、弘治3年(1557年)8月21日には葦毛の馬、永禄元年(1558年)閏6月29日に鹿毛の馬1疋、永禄2年(1559年)6月23日に黒栗毛の馬1疋を寄進した[19][20]。当時、厳島神社に寄進された馬は10疋ごとに1疋は厳島神社の神官である棚守房顕が受用し、それ以外の馬は厳島神社と関係が深い大願寺が受領していたため、元親の寄進した馬はいずれも大願寺が受用している[21]。
元親の没年は不明であるが、命日は8月29日と伝えられており[1]、また、永禄6年(1563年)6月4日に毛利隆元が隆繁(名字不明)が所有していた安芸国佐伯郡佐方の永興寺を元親の菩提所として父の桂元澄に与えている[注釈 4][22]ことから、永禄2年(1559年)から永禄5年(1562年)までのいずれかの年の8月29日に死去したことになる[1]。
長男の桂就宣は元親の叔父である桂元忠の養子となっていたため[3]、桂広信が後を継いだ[4]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この起請文において諱も記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊、志道元保、坂広昌(元貞)、門田元久、秋広就正、和智元俊、福原就房、桂元忠、桂就延、兼重元宣、渡辺長、赤川就秀、国司元相、粟屋元真、粟屋元親、粟屋元秀、赤川元秀、飯田元泰、粟屋元宗、井上元在(元光)、赤川元保、光永元方、長屋千太郎、福原元正、志道元親、桂元親、坂保良(元祐)、志道元信、志道通良(口羽通良)、桂元澄、敷名元範、南方元次、内藤元種、秋山元継、三田元親、井原元造。
- ^ なお、元親の名も記されている具足注文において、具足数で元親に続くのは坂元祐、赤川元久、児玉就秋の6両である[9]。
- ^ 騎馬衆には福原貞俊、桂元重、志道元保、長屋元定、渡辺長、赤川元保、赤川就秀、粟屋元通、飯田元泰、口羽通良、坂元貞、熊谷広真、天野元友が名を連ねており、走衆には福原就房、桂元親、兼重元宣、国司元相、粟屋元真、庄原新三郎、長沼元正、渡辺就国、赤川元久、粟屋元種、粟屋就方、児玉就光、児玉元茂、舟木元之(赤川元之)、粟屋元次、児玉就時、粟屋就秀、東又七郎、宍戸元親、井上元治、長井元為、山県元重、児玉保家、児玉兵庫允、香川政俊、遠藤利之、福原小三郎、国司元武、粟屋元著が名を連ねている[10]。
- ^ なお、隆繁には永興寺の代わりとして周防国都濃郡末武の受天寺を与えている[22]。
出典
[編集]- ^ a b c d e 長州藩士桂家文書 1979, p. 49.
- ^ a b c d e f g h i j k l 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 161.
- ^ a b c 長州藩士桂家文書 1979, p. 53.
- ^ a b c 『閥閲録』巻122「桂五郎左衛門」家譜。
- ^ 長州藩士桂家文書 1979, p. 55.
- ^ 長州藩士桂家文書 1979, p. 2.
- ^ 『閥閲録』巻104「湯淺權兵衛」第1号、天文17年(1548年)比定6月25日付け、湯淺五郎二郎(元宗)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、毛利氏家臣238名連署起請文。
- ^ a b 『毛利家文書』第625号、近習衆具足注文。
- ^ a b 『毛利家文書』第628号、騎馬衆以下注文。
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 227.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 232.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 232–233.
- ^ 『閥閲録』巻122「桂五郎左衛門」第1号、弘治2年(1556年)比定2月9日付け、桂兵部丞(元親)殿宛て、(毛利)隆元書状。
- ^ 『閥閲録』巻167「熊毛郡裁判 波多野周益」第1号、弘治2年(1556年)比定9月10日付け、波多野彦左衛門尉(勝実)殿・桂兵部丞(元親)殿宛て、(毛利)隆元書状。
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 251.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 252.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 253–254.
- ^ 廿日市町史 資料編1(古代・中世) 1979, pp. 260–261.
- ^ 『大願寺文書』神馬請取覚書。
- ^ 廿日市町史 資料編1(古代・中世) 1979, p. 261.
- ^ a b 廿日市町史 資料編1(古代・中世) 1979, pp. 702–703.
参考文献
[編集]- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。国立国会図書館デジタルコレクション
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 北原進『長州藩士桂家文書』立正大学経済研究所〈研究叢書9〉、1979年3月。全国書誌番号:79031161。国立国会図書館デジタルコレクション
- 廿日市町 編『廿日市町史 資料編1(古代・中世)』廿日市町、1979年3月。全国書誌番号:80021952。国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:21490091。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻122「桂五郎左衛門」、巻167「熊毛郡裁判 波多野周益」国立国会図書館デジタルコレクション、国立国会図書館デジタルコレクション