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橋本皆助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橋本 皆助(はしもと かいすけ、天保5年(1834年)? - 明治4年4月16日1871年6月3日)は、新選組隊士(伍長)、御陵衛士陸援隊隊士。変名に水野八郎藤井勇七郎。諱は利長[1]

大和郡山藩出身。脱藩して水戸天狗党筑波山挙兵に応じ、慶応2年(1866年)に新選組に入隊。仮隊士となる。三条制札事件の功労によって正式隊士となり、伍長に昇格するが、慶応3年(1867年)には伊東甲子太郎らと同意して新選組を離脱、御陵衛士を結成。しかし、その5ヶ月後に御陵衛士も脱退し、陸援隊に入隊。鷲尾隆聚高野山挙兵に参加後、明治元年3月8日、軍曹に選ばれる[2][3][4]

明治2年4月まで兵部省で裁判書頭助役取兼追捕手頭取を務めたが、土佐藩出身の木村弁之進小田原藩からの取り上げ金配分に関して「不埒の趣」があり、禁固処分を下され[3]、翌明治3年9月1日に免ぜられる[3]。同3日には郡山藩に復籍を命じられた[3]

翌明治4年に没したが、旧郡山藩士の間では京都の一料亭で暗殺されたと伝わる[5]。過去帳には「橋本氏弟こと水野八郎」、命日は4月13日と記され[5]、墓碑と3日の相違がある[5]。享年38。墓所は奈良県大和郡山市常光寺。墓参りをすると腹痛が治る伝承がある。

脚注

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  1. ^ 『鷲尾隆聚等血盟書 慶応3年8月』東京大学史料編纂所
  2. ^ 『軍曹名籍録』防衛省防衛研究所
  3. ^ a b c d 「元軍曹水野八郎扶持米郡山藩ニテ交付」『太政類典草稿・第一編・慶応三年~明治四年・第百八十巻・理財・禄制五』国立公文書館
  4. ^ 「浮浪勤王ノ士ヲ挙ケ軍曹トナシ俸禄ヲ給ス」『太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六巻・兵制・陸海軍官制』国立公文書館蔵
  5. ^ a b c “「水野八郎の墓」”. 『伝記』 (伝記学会) 3巻4号: 67. (1936).