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大隅潔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大隅 潔(おおすみ いさぎ、1942年6月22日[1] - )は、スポーツニッポン東京本社の元記者で、1964年東京オリンピック男子200m背泳ぎの日本代表選手[1]。現在は、セントラルスポーツの顧問を務める[2]

スポーツニッポンでは後年、東京本社の常務取締役や、西部本社の代表を歴任[2]。関連会社のスポニチクリエイツでも、代表取締役を務めた。退職後は、明治大学の客員教授に就任している[3]

経歴

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静岡県の出身で、少年時代に自宅付近の天竜川水泳へ親しむと、静岡県立浜松商業高等学校時代から競泳の選手として活躍。1964年東京オリンピックの開催を控えた1961年に、日本代表候補生の1人として、明治大学法学部への推薦入学を果たした[4]。実際に、大学4年生として迎えた東京オリンピックでは、競泳の日本代表として男子200m背泳ぎに出場。準決勝で自己最高の2分17秒0を記録したが、全体の9位で決勝進出を逃した。

大学生時代(東京オリンピックへの出場の前)に、当時『スポーツニッポン』で文芸評論の連載記事を執筆していた大井廣介と偶然知り合った[2]縁で、大井からの推薦によって大学卒業後の1965年に同社の東京本社へ入った[1]。水泳選手としての生活を大学で終えたうえで、3年後の1968年メキシコシティーオリンピックを現地で取材することを見越しての入社だったが、当初は校閲部に配属[5]1967年以降は、スポーツ記者として、大相撲を皮切りにボクシング、プロ野球(巨人担当)、ゴルフなどを取材していた[1]。会社の事情でオリンピック取材は実現しなかったものの、1968年6月18日付の1面では「大相撲力士(第47代横綱)の柏戸剛が婚約」[6]1977年4月26日付の1面では「(当時の)蔵前国技館を現在の(第2代)両国国技館へ移転することを日本相撲協会が計画」(実際には1985年1月の大相撲初場所から移転)というスクープを報じている[7]。なお、後年は、運動部デスク、写真部長、編集局次長、事業局長、東京本社取締役(広告・事業担当)などを経て、常務取締役・西部本社(九州)代表を務めた。

その一方で、1991年4月から6年間にわたって、スポーツニッポン東京本社編集局からの生中継で『ブロードキャスター』(TBSが毎週土曜日の夜間に編成していたテレビのJNN全国ネット向け生放送番組)のスポーツコーナーに出演[1]。翌日の東京本社発行版の1面記事をいち早く紹介したほか、大相撲本場所前後の放送では、「代貸(だいがし)の眼」と称するミニコーナーで相撲の解説も担当していた。退職後も、『ひるおび!』(TBSテレビ)などの情報番組で大相撲関連の話題を取り上げる場合に、「東京相撲記者クラブ会友」という肩書でコメンテーターを務めたり、コメントを寄せたりしている。

なお、出身地の静岡県からは、「観光大使」「広報アドバイザー」を一時委嘱されていた。

著書

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  • 「横綱大鵬 晩節のかがやき」 小学館 2010年。

脚注

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  1. ^ a b c d e 『現代静岡県人名鑑』267頁。
  2. ^ a b c 大隅潔さん<1>東京五輪候補生としてで明治大学に入学(3)(『日刊ゲンダイ2018年4月9日付記事)
  3. ^ 「横綱大鵬 晩節のかがやき」著者経歴
  4. ^ 大隅潔さん<1>東京五輪候補生としてで明治大学に入学(1)(『日刊ゲンダイ2018年4月9日付記事)
  5. ^ 大隅潔さん<2>麻雀三昧が「相撲記者として大いに生きた」(1)(『日刊ゲンダイ2018年4月11日付記事)
  6. ^ 大隅潔さん<3>大鵬さんに「一緒に風呂に入ろう」と誘われ(3)(『日刊ゲンダイ2018年4月12日付記事)
  7. ^ 大隅潔さん<2>麻雀三昧が「相撲記者として大いに生きた」(3)(『日刊ゲンダイ2018年4月11日付記事)

参考文献

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外部リンク

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