下野一霍
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下野 一霍 | |
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生誕 |
1889年9月11日 日本 東京府 |
死没 | 1969年6月24日(79歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1911 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
下野 一霍(しもの いっかく、1889年(明治22年)9月11日[1] - 1969年(昭和44年)6月24日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、松原[1]。
経歴
[編集]東京府出身[1][2]。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[2]。同年12月、砲兵少尉任官[2]。1914年(大正3年)11月、陸軍砲工学校高等科(第20期)を優等で卒業[2][3]。さらに1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を優等で卒業した[2][4]。
1932年(昭和7年)4月、陸大教官となり、1934年(昭和9年)9月、砲兵大佐に昇進[2]。1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長に就任[2]。1937年(昭和12年)3月、第6師団参謀長に発令され[2]、谷寿夫師団長に仕える。日中戦争に出征し、第二次上海事変、南京攻略戦、徐州会戦に参加。1938年(昭和13年)3月、陸軍少将に進級し下志津陸軍飛行学校付となる[1][2]。
1938年7月、熊谷陸軍飛行学校幹事に転じ、第9飛行団長に異動[1][2]。1940年(昭和15年)8月、下志津飛行学校長となり、同年12月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた[1][2]。
1942年(昭和17年)2月、漢口で新設された第58師団長に親補され[2]、司令部を応城に置き、前身であった独立混成第18旅団の任務を引き継ぎ応城付近の警備や治安維持に従事した[1]。1944年(昭和19年)3月、南方軍付となり、同年5月、同軍兵站監に就任したが、同年12月、東部軍付となり帰国[1][2]。1945年(昭和20年)2月、予備役編入となった[1][2]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
著書
[編集]- 五島広作編『南京作戦の真相 - 熊本第六師団戦記』東京情報社、1965年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。