テンコジ
テンコジ | |
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タッグチーム | |
メンバー |
天山広吉 小島聡 |
名称 | テンコジ |
デビュー | 1998年 |
団体 |
テンコジは、プロレスラーの天山広吉と小島聡のタッグチーム。『週刊プロレス』記者で現編集長の湯沢直哉が命名した。
概要
[編集]結成以前
[編集]テンコジの二人は、天山(当時は本名の山本広吉)が1990年に新日本プロレスに入門して、小島が翌1991年入門のほぼ同期の間柄であり、小島のデビュー戦の相手は山本が務めている。ヤングライオン時代からよく前座の試合でタッグを組んでおり、金本浩二&西村修とのタッグマッチでは前座の試合ながら、『週刊プロレス』の巻頭カラー3ページを飾ったこともある[1]。
結成
[編集]1993年のヤングライオン杯優勝後、山本は海外武者修行に出発し1995年に「天山広吉」とリングネームを改め凱旋、蝶野正洋・ヒロ斎藤と狼群団を結成するなどの活動をし始める。その後、狼群団はnWoジャパンへと発展し、新メンバーとして武藤敬司が加入した。武藤は、蝶野のケガによる欠場中に当時新日本体所属だった小島をnWoジャパンに勧誘し、小島もこれに同意し軍団入りする。しかし、天山ら旧来からのメンバーはこれに反発したため、両者の間には軋轢が生じるが1998年のSG TAG LEAGUE公式戦の武藤&小島vs天山&nWoスティングの試合で戦いを通じて小島のことを理解し、軍団入りを認める。そして翌1999年1月4日、天山と小島はヤングライオン時代以来のタッグで天龍源一郎&越中詩郎組の保持するIWGPタッグ王座に挑戦、これを奪取する。以後、このベルトを巡り永田裕志&中西学組と抗争を展開し、新日本のタッグ戦線を盛り上げた。
2000年にはその活躍が認められ、プロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を獲得した。ところが、2002年に小島が武藤と共に全日本プロレスへの移籍が決定した。そして新日本プロレス所属の最後の試合はやはりテンコジで、試合後花道を去ろうとする小島にマイクを握った天山は、「小島、出て行け、タコ! 全日本でも… どこだろうと! 頑張れよお前! わかってんのか! コジ! わかったか!」と天山一流のエールを送ると、これに対して小島は深々と頭を下げ花道を去り、テンコジも解散となった。
再結成
[編集]2005年、天山はIWGPヘビー級王者として、小島は三冠ヘビー級王者として史上初の四冠統一戦のリングで向かい合った。試合は59分45秒、天山が脱水症状を起こしKO負け、小島は初の四冠王に輝いた(その後IWGP王座はリターンマッチが行われ天山が王座奪回)。2006年にはG1 CLIMAXに小島が出場。大会前に「眼中に無い」と言われ発奮した天山と決勝を戦い、試合は天山が優勝した。この決勝での激闘を通じて二人は互いに歩み寄るようになり、その年の世界最強タッグ決定リーグ戦にテンコジとして出場し優勝を果たした。
それからしばらくした目立った活動は無かったが、2008年7月8日に天山が抗争を繰り広げていた飯塚高史とのランバージャック���デスマッチに勝利後、G・B・Hに袋叩きにされている天山の前に、全日本を負傷欠場中だった小島が救出に駆けつけ「真壁&G・B・H、よく聞け。俺たちが世界で一番有名で、世界で一番かっこいいタッグチーム、天山&小島、略してテンコジだ、バカ野郎!」とマイクアピールし、再びテンコジとして活動していくことをアピールしたのだった[2]。それから数試合、新日本と全日本のビッグマッチで勝利を積み重ねた二人は、プロレス界イチ泣かせるタッグチームというやたらと長いチーム名で満を持してG1タッグリーグに出場。初戦こそ落としたものの、それ以降順調に勝ち続け決勝トーナメントも制して優勝する。そして、世界最強タッグ決定リーグ戦でも負傷に苦しみながらも優勝を遂げたのである[3]。
2009年1月4日の東京ドーム大会では、真壁刀義&矢野通組のIWGPタッグ王座にチーム3Dと共に3WAY戦で挑戦することが決まっていたが、天山が網膜剥離で欠場を余儀なくされた。天山はそれから4か月後の5月3日に復帰し、復帰戦でチーム3Dに移っていたIWGPタッグの挑戦権を巡り、ジャイアント・バーナード&カール・アンダーソン組と対戦したが、天山がアンダーソンに敗北を喫した。天山は試合後、「いつまでもコジに迷惑掛けられへん!」と活動休止を宣言した。
2010年に入り天山は長期休養から復帰、小島はフリーとして「小島軍(仮)」として新日本に上がると敵対をしていたが鈴木みのるが小島軍を乗っ取り追い出されると、試合は直接は無かったもののフェードアウトする形となる。
再々結成
[編集]2011年8月、G1 CLIMAXで天山と小島が同じブロックにエントリーし、6年振りに対決。結果は、天山がオリジナルTTDで小島からピンフォール勝ちを収める。さらにこの試合で小島は右目眼窩底骨折と診断され、欠場に至った。後日開催されたALL TOGETHERでは、久しぶりに同じコーナーに立つことが注目されていたが実現不可能に終わった[4]。
9月19日、欠場中の小島がリングに上がり、新日本プロレスの菅林直樹社長の口から同団体への再入団を発表、復帰戦の相手として天山を指名する[5]。
10月10日両国大会にて公約通りに対戦が組まれ、小島がラリアットで勝利を飾った。11月12日大阪大会で決着戦が行われ、天山がムーンサルトプレスで勝利を収める。試合後に因縁の相手である飯塚高史から襲撃を受けスリーパーホールドを極められるも、一旦花道に引き上げた小島がリングに戻り飯塚を追い払った。両者共に握手は交わさなかったものの、これを機に次期シリーズではCHAOSのメンバーからリンチを受けた際に救出に駆け付ける場面が頻繁に見られた。そして11月27日、小島のテンコジ復活の呼びかけに天山が応じ、晴れて再々結成となった。12月4日愛知大会で飯塚、ヒデオ・サイトー組と対戦。ブランクを感じさせないタッグワークをこなし、最後は天山が飯塚からアナコンダバイスでタップを奪い勝利した。
2012年1月4日、BAD INTENTIONS(ジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン組)の保持するIWGPタッグ王座に挑戦。天山がムーンサルトプレスでバーナードを葬り去り、第58代IWGPタッグ王者に戴冠。2月12日にリターンマッチを要求してきた同タッグチームに初防衛戦を行い、小島がバーナードをラリアットで勝利を収めた。
3月18日には高山善廣、ランス・アーチャー組を退け2度目の防衛に成功するも、試合終了後に乱入してきた矢野、飯塚にタッグ王座を強奪される。4月8日に一時は取り戻すことに成功するも、休憩中のサイン会に襲撃をかけられ再度強奪された。
5月3日福岡大会、矢野、飯塚組と正式なタイトル戦が組まれ対決。試合終盤にテンコジが持ち込んだ手錠を逆に利用され、小島が孤立。さらにレフェリー不在の中でラフ殺法を展開され、最後は小島が矢野の鬼殺しでピンフォール負けを喫し王座陥落となった。試合後のコメントブースで納得のいかない天山と小島は再戦を訴え、6月16日に同カードが組まれるも、試合の収拾がつかなくなりノーコンテスト裁定が下る。
7月22日山形大会、王座を剥奪されて尚もベルトを持参する矢野、飯塚組と三度対戦を行う。レフェリーが4人という厳重態勢で行われた試合を制し、タッグ王座に返り咲くことに成功した。
10月8日両国国技館大会、鈴木軍のK.E.S.を相手に迎えたIWGPタッグ王座初防衛戦に敗れ王座から陥落した。11月11日大阪府立体育会館大会と2013年2月10日広島サンプラザホール大会でリマッチに臨んだが共に敗れ、同王座をかけたタイトルマッチではK.E.S.相手に全敗となっている。
2014年4月にはNWA世界タッグ王座を獲得するも、10月にまたしてもK.E.S.に敗れ王座から陥落となった。
その後は、しばらくタッグでのタイトルマッチからは遠ざかっていたが2017年3月6日大田区総合体育館で行われた新日本プロレス45周年の旗揚げ記念大会でIWGPタッグ王者矢野、石井智宏に挑戦予定だった本間朋晃が直前の沖縄大会で怪我(パートナーは真壁刀義)をしたため、急遽代役として挑戦し見事に勝利、3年4か月ぶりの王座奪還となった。
連携
[編集]- テンコジ・カッター
- 天山がマウンテンボムで相手の体を抱え、小島が相手の首を捕らえコジコジ・カッターでマットへ叩きつける。ダッドリー・デス・ドロップ(3D)と同型。
- オレごとアナコンダ
- 立っている相手をスタンディング式アナコンダ・バイスの要領で捕獲してから、そこへ小島がラリアットで天山の腕ごと相手をなぎ倒す。
- アナコンダ・カッター
- 天山が上記の通りスタンディング式アナコンダ・バイスで相手を捕らえ、小島がコジコジ・カッターの形で相手の顔、胸をマットに打ち付ける。
- TCD(Ten Cozy Driver)
- 天山のTTDと小島のCCDを同時に仕掛ける危険な複合技。
タイトル歴
[編集]- IWGPタッグ王座(第36代、40代、58代、60代、62代、74代)
- G1 TAG LEAGUE 優勝(2001年、2008年)
- 王道トーナメント 優勝 - 小島聡(2023年)
- 世界最強タッグ決定リーグ戦 優勝(2006年、2008年)
- MLW世界ヘビー級王座 - 小島聡(第11代)
- MLW世界タッグ王座 - 小島聡(第13代)(パートナーはOKUMURA)
- NWA世界ヘビー級王座 - 小島聡(第125代)
- NWA世界ヘビー級王座 - 天山広吉(第127代)
- NWA世界タッグ王座(第75代)
- 最優秀タッグチーム賞(2000年)
エピソード
[編集]- 10倍発言
テンコジの有名な発言として「1+1は2じゃないぞ。オレたちは1+1で200だ。10倍だぞ10倍」という小島の発言が知られている。
元々の発言は1999年3月5日に行われた興行「HYPER BATTLE '99」後楽園ホール大会のメインイベント(天山・小島・ヒロ斎藤vs越中詩郎・佐々木健介・永田裕志戦[6]、試合は○越中(パワーボム→エビ固め)ヒロ×)後にされたもので[7]、この発言だけを捉えると明らかな計算間違いに見えることから、雑誌『宝島』の読者投稿コーナー、「VOW」に取り上げられ[8] 一躍有名になってしまった[9]。小島は2006年に計算間違いだったと説明して発言を訂正している[9]。
しかし発言の訂正は一般には広まらず、2014年現在もこの発言と画像がネット上で広まっているため、2014年10月に小島が自身のTwitterで「この画像、いつまで出回ってるんですか?」と反応[10]。するとTwitterで大きな反響を呼び、小島自身もそのRT数の多さに驚く展開となった[10]。
2016年6月には、サンボマスターが、この発言をもじった「1+1+1は3じゃないぞ!1+1+1で300だ!!10倍だぞ10倍!ツアー」を開催した[11][12]。あわせてテンコジとコラボレーションしたTシャツも発売された[13]。
2016年12月8日に発売されたPlayStation 4用ゲームソフト『龍が如く6 命の詩。』にテンコジで登場しており、このセリフを発する場面がある[14]。
脚注
[編集]- ^ なお、1990年前後に新日本プロレスに入門したレスラーは第三世代と呼ばれており、他に永田裕志、中西学、大谷晋二郎、石澤常光などがいる。
- ^ 2008年7月8日後楽園ホール大会 スポーツナビ
- ^ 両メジャー団体のタッグリーグ戦を制したのはこれが史上初となる。
- ^ 小島の代理として井上亘が出場した。
- ^ 小島聡が新日本へ入団!10/10両国の復帰戦に天山を指名! 新日本プロレス公式ウェブサイト
- ^ シリーズ最終戦のIWGPタッグ王座タイトルマッチ(3.22尼崎)の前哨戦として組まれたもの。タイトルマッチは○佐々木(ノーザンライトボム→体固め)天山×で、越中・佐々木組が第37代チャンピオンとなった。
- ^ 週刊プロレス 1999.3.23号 P107-109。「VOW」に投稿されたのは、P109の写真とそのキャプション。
- ^ 「宝島」1999.9.29号 P95。単行本掲載は『街のヘンなもの大カタログ バウじゅうに』 P18
- ^ a b 小島聡 (2006年11月27日). “京都に住みたい!”. 小島聡 オフィシャルブログ 『コジログ』. 2009年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月30日閲覧。
- ^ a b 「この画像、いつまで出回ってるんですか?」プロレスラーの小島聡さん「10倍だぞ10倍」の画像に『Twitter』で反応 - ガジェット通��・2014年10月20日
- ^ サンボマスター「1+1+1は3じゃないぞ!1+1+1で300だ!!10倍だぞ10倍!ツアー」開催 - RO69・2016年2月15日
- ^ サンボマスター“36万人が泣いた”感動の石巻ライブを期間限定アーカイブ配信 - musician-net・2016年7月14日
- ^ 人気ロックバンド・サンボマスターの東北4県ツアーにて「テンコジ コラボTシャツ」の発売が決定!!新日本プロレス会場&通販でも数量限定で発売!! - 新日本プロレス・2016年6月16日
- ^ 『龍が如く6』の制作指揮を執った2人のキーパーソンに突撃インタビュー!【特集第5回/電撃PS】 - PlayStation.Blog・2016年12月15日