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AAアルヘンティノス・ジュニアーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
AAアルヘンティノス・ジュニアーズ
原語表記 Asociación Atlética Argentinos Juniors
愛称 El Bicho (The Bug)
El Semillero del Mundo (World's Seedbed)
El Tifón de Boyacá (The Boyacá Typhoon)
クラブカラー 赤・白
創設年 1904年
所属リーグ プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン ブエノスアイレス
ホームスタジアム エスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ
収容人数 26,000[1]
代表者 アルゼンチンの旗 クリスティアン・マラスピナ
監督 アルゼンチンの旗 ガブリエル・ミリート
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

アソシアシオン・アトレティカ・アルヘンティノス・ジュニアーズスペイン語: Asociación Atlética Argentinos Juniors)は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスラ・パテルナル地区を本拠地とするサッカークラブである。

1970年代にディエゴ・マラドーナなどが、1980年代にクラウディオ・ボルギフェルナンド・レドンドなどがアルヘンティノスからプロデビューし、やがてビッグクラブへと羽ばたいていった。また、フアン・ロマン・リケルメエステバン・カンビアッソも、アルヘンティノスの下部組織でプレーした経験がある。1985年にはコパ・リベルタドーレスで優勝してインターコンチネンタルカップに出場した。

歴史

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アルヘンティノスの起源は1886年まで遡る。アメリカに端を発する社会主義的着想によって、数千マイル離れたアルゼンチンにロス・マルティレス・デ・チカゴと呼ばれるクラブが設立された[2]。その18年後、ロス・マルティレス・デ・チカゴはソル・デ・ビクトリアと合併してアソシアシオン・アトレティカ・イ・フトゥボリスティカ・アルヘンティノス・ウニードス・デ・ビジャ・クレスポが誕生したが、この長大なクラブ名はクラブエンブレム決定の際に問題となり、アソシアシオン・アトレティカ・アルヘンティノス・ジュニアーズ (Asociacion Atletica Argentinos Juniors) に短縮された[2]。それまでの緑色と白色のユニフォームは、社会主義のシンボルカラーに起因する赤色と黒色のストライプに変更された。1921年にプリメーラ・ディビシオンに初昇格し、トップリーグで16シーズンプレー。しかし1930年代半ばにクラブ存続の危機に陥ると、スタジアムからの立ち退きを命じられ、クラブ会員はかろうじて100人を超える程度まで減少した[2]

1950年代に指揮を執ったフランシスコ・ファンディーノ監督が目指したスタイリッシュなパスサッカーは、El Tifón de Boyacá(ボジャカの台風)として知られた[2]。アルヘンティノスは名声を手に入れ、ディエゴ・マラドーナなどの若手有望選手を惹きつけた。1976年には15歳のマラドーナがトップチームデビューし、1980年にはリーグ戦で準優勝。マラドーナは4シーズン連続でリーグ得点王に輝いたが、不思議なことに、アルヘンティノスに黄金期が訪れたのは彼のボカ・ジュニアーズ移籍後であった。ロベルト・サポリティ監督に率いられたメトロポリターナ1984ではプロ化後初のリーグ優勝を飾り、クラウディオ・ボルギセルヒオ・バティスタペドロ・パスクッリなどがマラドーナらとともに2年後の1986 FIFAワールドカップ優勝メンバーとなった。ホセ・ジュディカ監督が率いたナシオナル1985ではクラブ2度目のリーグ優勝を果たし、同年のコパ・リベルタドーレスでは決勝でアメリカ・デ・カリ(コロンビア)を破って初優勝した。インターコンチネンタルカップではミシェル・プラティニ擁するユヴェントスFC(イタリア)と対戦したが、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった。

1988年11月20日のラシン・クラブ戦はPK戦にもつれ込んだが、このPK戦でのキッカーの人数は世界記録となった。両クラブ合わせて44人がPKを蹴り、アルヘンティノスが20-19でPK戦に勝利した[2]

1990年代には再び財政問題に直面し、1996年にはプリメーラB・ナシオナル(2部)降格。フアン・ロマン・リケルメエステバン・カンビアッソなど若手有望株の売却を余儀なくされた。彼らはアルヘンティノスの下部組織でプレーしていたが、リケルメはボカ・ジュニアーズの下部組織に移った後にボカからデビューし、カンビアッソはレアル・マドリードと契約した後にローン先のCAインデペンディエンテからトップリーグデビューした。再びプリメーラ・ディビシオンに昇格するものの、2002年にもプリメーラB・ナシオナルに降格して2004年まで在籍。クラブ存続の危機に瀕したが、若手選手育成に力を注いで危機を脱した。2003年12月26日にホームスタジアムが再オープンすると、2008年のコパ・スダメリカーナでは準決勝に進出し、クラブのレジェンドであるクラウディオ・ボルギ監督の下でクラウスーラ2010を制した。

ライバル

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アルヘンチノス・ジュニアーズの最大のライバルはCAオール・ボーイズである。他にCAプラテンセCAベレス・サルスフィエルドCAアトランタとライバル関係にある。

ユニフォーム

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アルヘンチノス・ジュニアーズのユニフォームが赤色なのは、創設メンバーの若者たちが、ロシアの無政府主義者、ピョートル・クロポトキンの支持者で、社会主義者であったことに由来する。

ニックネーム

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アルヘンチノス・ジュニアーズの愛称Los Bichos(ロス・ビチョス:虫の意)は1950年代、アルヘンチノスが素晴らしい戦いをしたある試合の後、日刊紙クラリンが記事のタイトルに「厄介な虫がいたずらをした」と書いた。この記事から、「虫」の部分だけ切り取られて使われるようになり、現在もアルヘンチノスの愛称とし使われている。

スタジアム

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現在は、1940年に建設された多目的スタジアムのエスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(エスタディオ・ラス・マルビナス)を所有している。かつての在籍選手であるディエゴ・マラドーナは「アルヘンティノスは我が家だ。このスタジアムの名前を聞くといつも背筋がぞくぞくする」と語っており、彼の名を採ってエスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナに改名された[2]

タイトル

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国内タイトル

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国際タイトル

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現所属メンバー

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2022年4月4日現在[3]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK アルゼンチン ミゲル・アコスタ
2 DF アルゼンチン ミゲル・アンヘル・トレン
3 DF アルゼンチン ロマン・ベガ
4 DF アルゼンチン ケビン・マック・アリスター
5 MF アルゼンチン ファウスト・ベラ
6 DF アルゼンチン ルーカス・ビジャルバ
7 FW ウルグアイ ハビエル・カブレラ
8 MF アルゼンチン ガブリエル・カラバハル
9 FW パラグアイ ガブリエル・アバロス
11 MF アルゼンチン マテオ・コロネル
12 GK アルゼンチン ルーカス・チャベス
16 FW アルゼンチン ガストン・ベロン
17 MF アルゼンチン フランコ・モジャノ
No. Pos. 選手名
18 FW アルゼンチン ティアゴ・ヌス
19 DF アルゼンチン ルシアーノ・ゴメス
20 GK アルゼンチン フェデリコ・ランツィロッタ
21 MF アルゼンチン ジャイール・ゴンサレス
22 FW アルゼンチン ラウタロ・オバンド
23 MF アルゼンチン フェデリコ・レドンド
24 DF アルゼンチン ルシアーノ・サンチェス
25 FW アルゼンチン ダビド・サラサール
26 FW コロンビア ホアン・カンパーニャ
27 DF アルゼンチン マリアーノ・ビットロ
29 DF アルゼンチン マルコ・ディ・チェーザレ
30 MF アルゼンチン パブロ・ミニサレ
32 FW アルゼンチン ��コラス・レニエロ

歴代監督

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歴代所属選手

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GK

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DF

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MF

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FW

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脚注

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  1. ^ Entradas Argentinos Juniors | Ticket Bureau”. 2017年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f FIFA.com. “Argentinos Juniors”. 2012年10月1日閲覧。
  3. ^ “Argentinos Juniors squad”. Argentinos Juniors. https://int.soccerway.com/teams/argentina/argentinos-juniors/113/squad/ 21 March 2020閲覧。 

外部リンク

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