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松平勝権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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松平勝権
時代 江戸時代後期
生誕 文化4年5月26日1807年7月1日
死没 慶応4年閏4月23日1868年6月13日
別名 雄三郎[1]、源三郎(通称)[2]
戒名 至徳院殿厚仁恵想日清大居士[3]
墓所 千葉県香取郡多古町南中の妙興寺
官位 従五位下相模守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
下総多古藩
氏族 井伊氏久松松平家康俊
父母 父:井伊直中、養父:松平勝升
兄弟 井伊直清穠姫、某、井伊直亮
鋭三郎、亀五郎、知、井伊中顕、充、秩、中川久教内藤政成、芳、勝権
新野親良井伊直元横地義之
内藤政優井伊直弼内藤政義
養兄弟:多喜
正室:松平勝升養女・寿美
久松勝行
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松平 勝権(まつだいら かつのり[2][1])は、江戸時代後期の大名下総国多古藩6代藩主。官位従五位下相模守

生涯

文化4年(1807年)5月26日[2]近江国彦根藩主・井伊直中の九男として誕生[2][注釈 1]。多古藩5代藩主・松平勝升の婿養子となる。文政元年(1818年)に勝升が死去したため家督を継ぎ[1]、11月16日に従五位下・相模守に叙位・任官する。文政9年(1826年)、はじめて領地入りの暇を得る[1]

大名として、江戸城各門の門番[1]、将軍家の行事の際の通路警備(辻固め)[1]などの課役を果たした[1]

天保元年(1830年)、江戸小石川西富坂上の上屋敷内に藩校「学問所」を創設した[4]

弘化3年(1846年)7月、元長崎唐大通事の神代徳次郎を預けられた[1]

嘉永元年(1848年)10月7日、病気を理由に家督を長男・勝行に譲って隠居する。慶応4年(1868年)閏4月23日に死去した[2]。享年62[2][注釈 2]

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 『多古町史』は「五男」と数えている[1]
  2. ^ 『多古町史』は享年を63、生年を文化3年(1806年)とする[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 松平勝権”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
  3. ^ 地域史編 旧中村>南中(みなみなか)>宗教/神社・寺院>正峰山妙興寺>松平(久松)家墓所”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月17日閲覧。
  4. ^ 通史編 第四章>第六節 宗教と文化>四、教育・学問”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。

外部リンク