島田退蔵
島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4日 - 1970年〈昭和45年〉2月22日)は、日本の国文学者。第三高等学校の最後の校長。
略歴
新潟県新潟市一番堀通町(現 新潟市中央区一番堀通町)の弁護士・島田脩三の次男として出生[1][2][注 1]。
1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第三高等学校を卒業、1913年(大正2年)7月に京都帝国大学文科大学文学科(国文学専攻)を卒業[2]。
1914年(大正3年)4月に島根県立浜田中学校教諭に就任、1917年(大正6年)7月に公立中学校教諭に任官(高等官)[4]、引き続き島根県立浜田中学校に勤務、1920年(大正9年)10月に第三高等学校教授に任官。以後、以下の教職を兼任[5]。
- 1923年(大正12年)4月 - 第七臨時教員養成所講師
- 1924年(大正13年)4月 - 武道専門学校講師 - 1925年(大正14年)3月
- 1925年(大正14年)4月 - 同志社女子専門学校講師 - 1933年(昭和8年)3月
- 1933年(昭和8年)4月 - 京都府立女子専門学校講師 - 1934年(昭和9年)3月
- 1933年(昭和8年)4月 - 大谷大学講師 - 1939年(昭和14年)3月
- 1934年(昭和9年)4月 - 関西大学講師 - 1935年(昭和10年)3月
- 1935年(昭和10年)4月 - 京都府立女子専門学校講師 - 1944年(昭和19年)3月
- 1936年(昭和11年)10月 - 京都帝国大学文学部講師 - 1938年(昭和13年)3月
- 1939年(昭和14年)4月 - 京都帝国大学文学部講師 - 1940年(昭和15年)3月
- 1942年(昭和17年)4月 - 京都帝国大学文学部講師 - 1943年(昭和18年)3月
- 1945年(昭和20年)10月 - 京都女子高等専門学校講師 - 1947年(昭和22年)3月
- 1946年(昭和21年)4月 - 京都府立女子専門学校講師 - 1951年(昭和26年)3月
- 1947年(昭和22年)4月 - 同志社女子専門学校講師 - 1951年(昭和26年)3月
1947年(昭和22年)4月に第三高等学校の学制改革研究委員会の委員に就任、1948年(昭和23年)3月に京都大学と第三高等学校の合同委員会の委員に就任、1949年(昭和24年)5月31日に京都大学第三高等学校校長事務取扱に就任[6][7]。
第三高等学校の廃校にあたり、最後の校長として1950年(昭和25年)1月24日午後の予餞会、次いで3月31日午後5時からの解散式で告辞を述べ[注 2]、玄関の校銘板(揮毫:高橋是清)を降ろし、真夜中の午後12時、校門の門標を取り外した[8]。
1950年(昭和25年)3月31日に京都大学第三高等学校を依願退官[9]、4月に光華女子短期大学講師に就任して10月に教授に就任。以後、以下の教職を兼任[10]。
1953年(昭和28年)4月に関西大学文学部教授に就任[11]、1960年(昭和35年)3月に関西大学を定年退職、4月に関西大学文学部非常勤講師に就任[注 3]、1964年(昭和39年)に光華女子大学文学部日本文学科主任教授に就任[13][14][注 4]。
1970年(昭和45年)2月22日午後0時10分に京都市の自宅で肺炎のため死去[13]。
人物
島田退蔵のことを、同僚たちは温厚、寛仁、篤実、謙虚だと述べているが、教え子たちは怖かったと言っている[1][16]。
ある年の第三高等学校の入学試験の英語の書取で同僚の深瀬基寛が各試験教室を回って英文を読み上げていたが、勘違いで島田退蔵の担当の試験教室を飛ばして職員室に帰り、ビールを1杯飲んで五条坂に陶器を見に出かけようと腰を上げた途端、島田退蔵がものすごい剣幕で詰め寄ってきて、自分の試験教室に来なかった責任を追及し、「お前が腹を切らねば俺が切る」と迫ってきた。深瀬基寛は島田退蔵の試験教室に引き連れられ、英文を読み終わると同時に試験終了のチャイムが鳴った。深瀬基寛は、島田退蔵のおかげで自分は未だに失職しないでいる、島田退蔵のような教員で第三高等学校は維持されていた、と書いている[17]。
栄典・表彰
家族・親戚
- 鳥居与一左衛門和達 - 義祖父、妻の父の父、武士、村上藩町奉行。
- 鳥居三十郎 - 義伯祖父、妻の父方の祖母の兄、武士、村上藩家老。
- 鳥居鍗次郎 - 義叔父、妻の父の弟、弁護士、衆議院議員。
- 鳥居恵二 - 義従弟、妻の伯父の娘婿、耳鼻咽喉科学者[20][21][22]、新潟大学名誉教授、初代・第3代新潟県医師会会長。
- 鳥居敏文 - 義弟、妻の異母弟、画家。
- 島田信男 - 次男、病理学者、臨床検査医学者、京都府立医科大学名誉教授。
- 島田恒男 - 三男、俳人。俳号は刀根夫。
- 島田尋郎 - 男孫、俳人。俳号は牙城。島田恒男の子。
著作物
著書
- 『縮譯 源氏ものがたり』吉澤義則[序]、文献書院、1923年。
- 『國文學史槪説』阪倉篤太郎[共著]、文献書院、1924年。
- 『分類 日本文學史』阪倉篤太郎[共著]、文献書院、1928年。
- 『國文學講座 第四卷 枕草紙選釋』受験講座刊行会、1930年。
- 『高等學校 入學試驗國文問題解説』田中健三[共著]、国語漢文学会、1932年。
- 『續國文學講座 枕草紙選釋』文献書院、1932年。
- 『續國文學講座 上古歌謡 上代文學槪説 國文學名作梗槪』井手淳二郎・澤瀉久孝[共著]、文献書院、1933年。
- 『國文學大講座 第六 枕草紙選釋』日本文学社、1935年。
- 『源氏物語總釋 第四』加藤順三[共著]、楽浪書院、1938年。
編書
- 『抄本源氏物語』吉澤義則[共編]、文献書院、1924年。
- 『抄本源氏物語 下卷』吉澤義則[共編]、文献書院、1925年。
- 『建禮門院右京大夫集』平野書店、1930年。
- 『更級日記』三省堂〈新制高等国文叢書〉、1940年。
- 『枕草子選』星野書店、1943年。
訳書
- 『源氏物語(上)』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学全集 4〉、1961年。
- 『源氏物語(中)』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学全集 5〉、1961年。
- 『源氏物語(下)』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学全集 6〉、1962年。
- 『源氏物語 上』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学全集 4〉、1964年。
- 『源氏物語 中』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学全集 5〉、1965年。
- 『源氏物語 下』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学全集 6〉、1965年。
- 『源氏物語(上)』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学 4〉、1975年。
- 『源氏物語(中)』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学 5〉、1975年。
- 『源氏物語(下)』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[改訂]、筑摩書房〈古典日本文学 6〉、1975年。
- 『源氏物語』吉沢義則・加藤順三・宮田和一郎[共訳]、山岸徳平[監修]、フランクリン・ライブラリー、1988年。
校訂書
校註
修訂
論文
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 島田茂生『明治期知識人の形成と継承 島田脩三と鳥居鍗次郎、そして島田退蔵・テルヱ (PDF) 』2-3・5頁。
- ^ a b 「島田退蔵教授年譜」『島田教授古稀記念 国文学論集』419頁。
- ^ 『越佐人物誌 上巻』469頁。
- ^ 「敍任及辭令」『官報』第1491号、434頁、内閣印刷局、1917年7月20日。
- ^ 「島田退蔵教授年譜」『島田教授古稀記念 国文学論集』419-420頁。『京都大學文學部五十年史』205頁。
- ^ 『京都大学百年史』612・614・616頁。『敗戦から廃校まで 三高最後の年月』21頁。
- ^ 「叙任及び辞令」『官報』第6833号、252頁、印刷庁、1949年10月21日。
- ^ 『ザ・京大』64-65頁。『青春風土記 4』428頁。『紅もゆる』 口絵25・746-747頁。『神陵史』1001頁。
- ^ 「叙任及び辞令」『官報』第7042号、46頁、印刷庁、1950年7月4日。
- ^ 「島田退蔵教授年譜」『島田教授古稀記念 国文学論集』420頁。
- ^ 「島田退蔵教授年譜」『島田教授古稀記念 国文学論集』420頁。『國文學』第76号、65頁。
- ^ 『國文學』第76号、79頁。
- ^ a b 『新潟日報』1970年2月24日付朝刊、15面。
- ^ 『全国大学職員録 昭和39年版』958頁。『全国大学職員録 昭和45年版』1384頁。
- ^ 『全国大学職員録 昭和40年版』1017頁。『全国大学職員録 昭和45年版』1383頁。
- ^ 「まえがき」『島田教授古稀記念 国文学論集』1頁。
- ^ 『深瀬基寛集 第二卷』447-448頁。『昭和文学全集 33: 評論随想集 I』327頁。
- ^ 「辭令二」『官報』第4491号付録、10頁、内閣印刷局、1941年12月26日。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第12976号、18頁、大蔵省印刷局、1970年3月24日。
- ^ 鳥居恵二 - 20世紀日本人名事典 - コトバンク
- ^ 鳥居恵二 - デジタル版 日本人名大辞典+Plus - コトバンク
- ^ 教室の沿革 | 新潟大学大学院医歯学総合研究科 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学分野
参考文献
- 「島田退蔵」『越佐人物誌 上巻』468-469頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
- 「島田退蔵氏」『新潟日報』1970年2月24日付朝刊、15面、新潟日報社、1970年。
- 『島田教授古稀記念 国文学論集』小島憲之・吉永登・澤瀉久孝・風巻景次郎・北住敏夫・森修・祐田善雄・谷沢永一・阪倉篤義・渡辺実・永野賢・ほか[著]、関西大学国文学会、1960年。
- 「関西大学文学部国文学科五十年表」『國文學』第76号、56-115頁、浦西和彦[作成]、関西大学国文学会、1997年。
- 『京都大學文學部五十年史: 第二 講座の沿革: 三 文學科: 國語學國文學第一・第二講座 (PDF) 』京都大学文学部[編]、京都大学文学部、1956年。
- 『京都大学百年史: 部局史編 2: 第14章 (旧)教養部』京都大学百年史編集委員会[編]、京都大学後援会、1997年。
- 『ザ・京大』岩田英彬・斎藤清明[著]、松籟社、1988年。
- 『青春風土記 旧制高校物語 4』週刊朝日[編]、朝日新聞社、1979年。
- 『紅もゆる 旧制高等学校物語 3』石井嘉平・森田義明[編]、財界評論社、1965年。
- 『資料集成 旧制高等学校全書 第五巻 設置・運営編』旧制高等学校資料保存会[編著]、仲新[総監修]、昭和出版、1982年。
- 『旧制高等学校全書 第五巻 設置・運営編』訂正版、旧制高等学校資料保存会[編著]、仲新[総監修]、旧制高等学校資料保存会刊行部、1985年。
- 『神陵史 第三高等学校八十年史』神陵史編集委員会[編]、三高同窓会、1980年。
- 『敗戦から廃校まで 三高最後の年月 (PDF) 』京都大学大学文書館[編]、京都大学大学文書館、2020年。
- 『全国大学職員録 昭和39年版』大学職員録刊行会[編]、廣潤社、1964年。
- 『全国大学職員録 昭和40年版』大学職員録刊行会[編]、廣潤社、1965年。
- 『全国大学職員録 昭和45年版』大学職員録刊行会[編]、廣潤社、1969年。
- 『深瀬基寛集 第二卷』深瀬基寛[著]、唐木順三[編]、筑摩書房、1968年。
- 『昭和文学全集 33: 評論随想集 I』井上靖・山本健吉・中村光夫・吉行淳之介・高橋英夫・磯田光一・小田切進・巖谷大四[編]、小学館、1989年。