三国同盟 (1882年)
三国同盟(さんごくどうめい)は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアによる秘密軍事同盟。
18世紀以来ロシア帝国にはサンクトペテルブルクを通して列強の資本が流れており、日露戦争まではドイツが英仏よりも影響力をもった。しかしドイツは三国同盟を結成してから東方問題にかかりきりとなり、極東は英仏が政治、経済的に支配した。
背景と結果
[編集]普仏戦争でフランス帝国に勝って成立したドイツ帝国は、大不況における金本位制の牽引役としてイギリス帝国に肩を並べるようになった。並行してベルギーとの関係を深めた。ベルギーは露仏同盟が成る前から、サンクトペテルブルクへ列強が資本を輸出する基地として利用されていた。このような状況のベルギーにおいて、ドイツは日本と国際的地位を次第に高めてゆき、サンクトペテルブルクに中央銀行をつくったり、三国干渉へ参加したりするような数々の成果を手にしていった。
ドイツがベルギーという国際金融市場に台頭する様子は、オスマン債務管理局での競争に記録が残っている。同管理局は1881年に発足し、翌年に本稿の三国同盟が結ばれた。ベルリン会議をドイツが主催し、ベルギー領コンゴとドイツ領東アフリカが3C政策を妨害した。さらにドイツ銀行とドイツ・オリエントバンクがバグダード鉄道とレバント貿易をそれぞれの利権とした。
管理局の根拠法であるムハレム勅令の第15条は、同局の評議会議長職を英仏代表が交代で務めるものと規定していた。19世紀末、オスマン帝国への新規投資で仏独資本が優位となった。イギリスは自身で保護国化したエジプトの開発に傾斜していた。このとき、ドイツ銀行が鉄道保証財源として関税収入をほしがっていた。管理局は収入の先取特権をもっていたので、先の15条が保証財源を確保する上で障害となっていた。しかし同条には、各国の公債保有状況に「本質的変化」が生じたら各国代表で議長を選びなおしてよいとも書いてあった。「本質的変化」とはそもそも勅令が対象とした普仏戦争以前の公債が大量に転売された場合をさしており、ドイツが主に保有する1880年代以降の新規公債は関係ないはずであった[1]。
この状況にドイツは不満を抱き、1898年3月、ドイツ代表リンドウ(Rudolf Lindau)が「本質的変化」の発生を主張、三国同盟各国代表の連名で管理局の議長選挙の可否を発議した。翌年1月にフランス側がイギリス債権にオランダ・ベルギーの分を加算するなどして反駁した。フランス側の代表は1892年から1908年までずっとレオン・ベルジェ(Léon Berger)であったが、バグダード鉄道をふくむ帝国内の鉄道5社と埠頭会社2つの重役と、さらにたばこ公社副社長を兼務する大物であった。加算を不当とするなどの再反駁の後、ベルジュは議長として和解を模索した。結局1901年4月、元ジュネーブ財務官僚・現スイス連邦評議会副議長のアドー(Gustave Ador)が調停委員となり、翌年2月に仲裁判決が出て議長選挙の可能性が潰えた。要旨は以下である[1]。
- 「本質的変化」とは、英仏保有債権の数量・価値が他国よりも低い場合に限る。
- 債権の数量・価値は市場価値ではなく、その銘柄・額面と固有の抵当財源の有無で決まる。
- 議長選出にあたり、ベルギーが保有する債権額は英国保有分に加算・換算されてはならない。
切り崩し
[編集]このあと、対独を意識した英仏協商が急ぎ編成された。また、ポーツマス条約によって極東の勢力圏が確定したことで、英露協商が結ばれた。これにより露仏同盟を核とする三国協商が成立した。南下政策の阻止を主目的としていた日英同盟も転用され、日本も日露協約と日仏協約を結び、三国協商側に立つことになった。これによって山東半島のドイツ膠州湾租借地は孤立した。
「未回収のイタリア」と呼ばれる南ティロル・トリエステなどを巡りオーストリアとの領土問題を抱えていたイタリアは、1902年に仏伊協商をフランスと結び、ドイツがフランスを攻撃する際にはイタリアは参加しないことを約束した。イタリアは三国協商側に接近しつつあったが、1915年4月イギリスとの間にロンドン秘密条約を秘密裏に結び、未回収のイタリアをイタリアに割譲する算段をとりつけた。5月には連合国側に付いてオーストリアに宣戦し、三国同盟は二国同盟となった。
そもそもドイツとイタリアは、普仏戦争から同盟結成の時期にかけて掘削されたゴッタルド鉄道トンネルで物理的につながっていた[疑問点 ]。このトンネルは1909年スイスで国有化されるが、4年後に連邦議会が世論に反してゴッタルド条約を更新、スイス連邦鉄道に関しドイツ・イタリアに最恵国待遇を与えた[疑問点 ]。スイスは第一次世界大戦後に国際連盟に加盟させられ、有事に経済制裁へ参加する義務を課せられた(制限中立)[疑問点 ]。1935年、イタリアに対するそれが多くの国で十分に履行されなかった[疑問点 ]。それをきっかけに1938年スイスは絶対中立へ戻った[疑問点 ]。このようなトンネルは日独伊三国同盟につながっていた[要��明]。
脚注
[編集]武田論文は平成11年度文部省科学研究費(奨学研究)による研究成果の一部である。