コンテンツにスキップ

尾陽神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年11月14日 (火) 11:53; Anakabot (会話 | 投稿記録) による版 (Bot作業依頼#朝廷の分割に伴うリンク修正)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
尾陽神社
尾陽神社拝殿
所在地 愛知県名古屋市昭和区御器所二丁目9-19
位置 北緯35度8分52秒 東経136度55分17秒 / 北緯35.14778度 東経136.92139度 / 35.14778; 136.92139座標: 北緯35度8分52秒 東経136度55分17秒 / 北緯35.14778度 東経136.92139度 / 35.14778; 136.92139
主祭神 天照大御神
徳川義直
徳川慶勝
社格 県社・4級社
創建 明治43年
本殿の様式 権現造
例祭 4月28日
10月28日
テンプレートを表示

尾陽神社(びようじんじゃ)は、愛知県名古屋市昭和区御器所に鎮座する神社

由緒

[編集]

明治時代になって旧尾張藩士の請願によって名古屋東照宮に合祀されていた徳川義直(初代尾張藩主)と徳川慶勝(14代・17代)を祀るための神社として、名古屋開府300年記念事業に合わせて旧藩士による戴恩会が結成され、1910年明治44年)に創建。1922年大正11年)6月30日に県社に列せられたのち、大正13年10月28日に遷座された。

神社の資料では別格官幣社に昇格の内示があったものの、太平洋戦争の勃発があったため昇格は叶わなかったとしている。当初造られた社殿は神明造であったが1945年昭和20年)の名古屋大空襲により焼失し、現在の社殿は1970年昭和45年)に再建されたものである。

1949年昭和24年)に天照大御神を主祭神として合祀。また、1973年昭和48年)には徳川家本邸の栄世稲荷神社を、1976年昭和51年)には大神神社の摂社である久延彦神社の分霊を受けて摂社として祀っている。なお、久延彦神社の社殿は枚方市にある山田神社から贈られたもので、元々は約200年前に春日大社の本殿として使われていたものであるという[1]

祭神

[編集]

境内社

[編集]

摂社

[編集]

末社

[編集]

神宝

[編集]

御器所西城

[編集]
logo
logo
御器所西城
愛知県
別名 御器所城
城郭構造 平山城
天守構造 不明
築城主 佐久間家勝
築城年 嘉吉年間(1441年-1443年
遺構 跡、石碑、説明版
指定文化財 なし
再建造物 なし
テンプレートを表示

御器所西城(ごきそにしじょう)は現在、神社がある付近に在った平山城である。

概要

[編集]

比高差10メートルの丘に建てられた。現在の社地は嘉吉年間(1441年-1443年)に佐久間美作守佐久間家勝とも言われる[1])が築いた御器所西城の跡地と伝わる。 なお、創建当時は空堀土塁の一部が残っていたというが、2009年平成21年)現在では周辺の開発も進んでおり痕跡を確認出来ない。神社の西側から北側にかけて石垣があるがこれは近年の神社整備によって造られたもの。本殿の背後(北側)にわずかに残る崖状の地形が、城があった当時の様相を伝えるのみである。

歴史

[編集]

佐久間盛次の代になると織田信長に仕えた。子の佐久間盛政柴田勝家であったので天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは勝家の軍勢に属した。この戦いで盛政は討死し、廃城になった。

アクセス

[編集]

自家用車

[編集]

公共交通機関

[編集]

参考文献

[編集]
  • 名古屋市 『復刻版 名古屋市史 社寺編』 愛知県郷土資料刊行会、1980年(原書1915年(大正4年)発行)
  • 名古屋市教育會 編著 『概観大名古屋』、1933年
  • 昭和区制施行50周年記念事業委員会 編著 『昭和区誌』、1987年
  • 名古屋市教育委員会編著 『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』第三版、1998年
  • 生田良雄 『昭和区の歴史』 愛知県郷土資料刊行会、1999年

脚注

[編集]
  1. ^ a b 名古屋市教育委員会『『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』第三版』名古屋市教育委員会、1988年、186頁。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]