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ロバート・トッド・リンカーン

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ロバート・トッド・リンカーン
Robert Todd Lincoln
ロバート・トッド・リンカーン(1915年ごろ)
生年月日 1843年8月1日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イリノイ州スプリングフィールド
没年月日 (1926-07-26) 1926年7月26日(82歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
バーモント州マンチェスター
出身校 ハーバード大学
ノースウェスタン大学法学院
所属政党 共和党
配偶者 メアリー・ハーラン・リンカーン(1846-1937)
子女 マミー・リンカーン・イシャム(1869-1938)
エイブラハム・リンカーン2世(1873-1890)
ジェシー・ハーラン・リンカーン(1875-1948)
サイン

在任期間 1881年3月5日 - 1885年3月5日
大統領 ジェームズ・A・ガーフィールド
チェスター・A・アーサー

在任期間 1889年 - 1893年
大統領 ベンジャミン・ハリソン
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ロバート・トッド・リンカーン
Robert Todd Lincoln
所属組織 北軍
軍歴 1865年
最終階級 大尉
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ロバート・トッド・リンカーン英語: Robert Todd Lincoln , 1843年8月1日 - 1926年7月26日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士実業家。第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンメアリー・トッド・リンカーンの長男で4人の息子のうち、唯一成人するまで存命した。

共和党に所属し、ジェームズ・A・ガーフィールド政権およびチェスター・A・アーサー政権下で第35代アメリカ合衆国陸軍長官を務めた。その後、ジョージ・プルマンが亡くなった1897年にプルマン・パレスカー社の社長に任命された。

バーモント州マンチェスターにある別荘ヒルデン英語版1977年アメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されている。

家族と生い立ち

青年時代のロバート・トッド・リンカーン(1865年前後に撮影)

ロバート・トッド・リンカーンは1843年8月1日エイブラハム・リンカーン(1809–1865)とメアリー・トッド・リンカーン(1818–1882)の長男として、アメリカ合衆国イリノイ州スプリングフィールドにて出生した。彼にはエディ(1846–1850)、ウィリー(1850–1862)、タッド(1853–1871)という名の3人の弟がいた。ロバートが生まれるころには父はイリノイ州議会議員を4期務め、ホイッグ党の主要メンバーの1人になっていた。ロバート・リンカーンは母方の祖母にちなんで名付けられた[1]

父親がアメリカ合衆国大統領に就任したとき、大統領の3人の息子のうち、ロバートのみがほとんど親に頼らず、独り立ちしていた[2]。1859年にハーバード大学の入学試験を受けたが、16科目中15科目の試験に落ちた[3]。その後、大学に通う準備をするためにフィリップス・エクセター・アカデミーに入学して1860年に卒業した[4]。それからハーバード大学に入学して、1864年に卒業した。ハスティ・プディング・クラブ英語版デルタ・カッパ・エプシロン英語版の会員でもあった[5]

ハーバード大学卒業後はハーバード・ロースクールに在籍した[6]。ロバートが初めて父親に対してロースクールへの関心を示したときに、リンカーン大統領は「やるならこれまでの私以上に学ばなければならないが、あまり良い人生を過ごせないかもしれないね」と忠告している[7]。1864年9月から1865年1月まで通ったが、南北戦争北軍に参加するためにロースクールを去った[8]

メアリー・トッド・リンカーンは終戦直前までロバート・リンカーンを軍務につかせることをためらい、大統領を困惑させた[9]。ウィリーの死のショックでロバートが戦死してしまうのを恐れていた。1865年1月にファーストレディがついに屈し、リンカーン大統領はユリシーズ・S・グラントに手紙を書き、ロバートを直属の部下として配属させられるか尋ねた[10][11]

1865年2月11日にロバートは大尉に任命され、さらにアメリカ南北戦争の最後の数週間はグラント将軍の側近を務めて実戦から遠ざけられた。ロバート・E・リー将軍が降伏した時にはアポマトックスにいた[9]

父親エイブラハムとは疎遠な関係であったとされる。幼少期は巡回裁判所の判事を務めていた父親と会話をする機会がほとんど与えられなかったことがその原因に挙げられる。エイブラハムとロバートの親子関係はトーマス(ロバートの祖父)とエイブラハムの親子関係に似ていた[12]。ロバートは「私の幼年時代から青年時代初期にかけて、出廷したり政治的なスピーチをしたりで、彼はほとんど絶えず家に居なかった」と述べており[13]、また、後年にイリノイ州各地を旅行するためにサドルバッグに荷物を詰めている場面が特に鮮明な記憶として残っていると振り返っている[14]。ただ、エイブラハムはロバートの存在を誇りに思い、輝ける人物であるとみており、息子について将来は自分の政治的ライバルになり得るとも考えていた[15]。ウィリーやタッドと違い、父親と強い信頼関係を築けなかったが、ロバートは父親を偉大な人物として賞賛し、その死に際しては公然と泣きくれた[16]リンカーン大統領銃撃事件の日の夜はフォード劇場で観劇する両親に同行する誘いを受けていたが、「ここ最近、出征してほろ馬車で多くの時間を過ごしたばかりなので疲れがたまっている」との理由で断っていた[17][18][19]

メアリーがロバートに「ここを出る準備をするなんてとてもできないわ」と伝えていたため、1865年4月25日にロバートは後継の合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンに、彼の家族がホワイトハウスに2週間半ばかり滞在するのを許可してくれるように頼む手紙を書いた。ロバートはジョンソンが合衆国大統領に就任して以来、「大迷惑」と感じていたのに気付いていたことも認めている[20]

父親が暗殺された後、しばらくしてロバートは母親メアリーおよびタッドとイリノイ州シカゴへ移り住み、シカゴ大学英語版で法律を学んだ。1866年1月1日に母親、弟と同居していたアパートを去った。彼は家族と一緒に生活していたときには経験しなかった「いくぶんか快適な暮らしに順応していく」ためにシカゴのダウンタウンに自分が住む部屋を借りた[21]。1867年2月22日にシカゴで弁護士として認可された。その4日後、1867年2月26日に法律業従事者に認定された[22]

バーモント州マンチェスターにある別荘ヒルデン英語版

1868年9月24日に連邦上院議員ジェームズ・ハーランの娘、メアリー・ハーラン・リンカーン英語版と結婚した。夫妻は娘2人と息子1人をもうけた[23]

まだ空気調和前の時代にあって、ロバートの一家はひんぱんに都市生活を抜け出し、涼しい気候のアイオワ州マウントプレザント英語版へ旅した。1880年代に一家はハーラン家で夏を過ごした。1876年に建てられたハーラン・リンカーンの家は現存している。メアリー・ハーラン・リンカーンが1907年にアイオワ・ウェズリアン大学英語版に寄贈し、現在はリンカーン家にまつわる歴史的な芸術品を今に伝える博物館となっている[24]

母親との関係

1870年代に撮影された写真

1871年に悲劇が一家を襲った。ロバートの末の弟のタッドが病死してしまい、残された母親は悲しみに打ちのめされた。母親の浪費ぶりと奇行を以前から心配していたロバートは破滅に向かっているのではないかと恐れて彼女をイリノイ州バタヴィア英語版精神病院に収容するように手配した。1875年5月20日にメアリーはベルビュープレイスと呼ばれる高級療養所に到着した[25]。彼女はベルビュープレイスで3か月過ごした後に脱出を計画した。弁護士ジェームズ・B・ブラッドウェル英語版とその妻のマイラ・ブラッドウェル英語版に密かに手紙を送った。また、センセーショナルな報道で知られる『シカゴ・タイムズ』の編集者あてに手紙を書いた。それからまもなく、ロバートのこの行動は問題視されるようになった。ベルビューの管理者は彼女が望むように、メアリーが姉と一緒に暮らすためにスプリングフィールドに移動しても支障のないレベルに回復したと宣言した[26]。この一件から両者の関係は急激に悪化してしまい、以後完全に和解することは二度となかった[27]

政治への関与

アメリカ合衆国陸軍長官

1877年に合衆国大統領ラザフォード・ヘイズから国務次官補への就任を要請されたが、ロバートは辞退した[28]。1881年に合衆国大統領ジェームズ・A・ガーフィールド陸軍長官のポストを提示すると今度は受諾し、続くチェスター・A・アーサー政権でも同長官を務め、1881年から1885年まで在任した[28]

陸軍長官在任中に発生した1884年のシンシナティ暴動英語版ではロバートの命令でオハイオ州シンシナティに派遣された軍が秩序を回復させるまでの3日間で45人の死者が出た[29]

街の路上で以上にホームレスの少年を多く見かけて危惧したオスカー・ダドリーとともに、1887年にイリノイ州のノーウッドパーク英語版に男子のための職業訓練校を設立した。学校は1890年に同州グレンウッド英語版に移転した。近年になって「グレンウッド・アカデミー」に校名を改称し、女子も受け入れるようになった[30]

駐イギリス公使

合衆国ベンジャミン・ハリソン大統領から1889年に駐イギリス公使に任命され、1893年に召還されるまで4年務めた。ロバートの息子のエイブラハム・リンカーン2世はこのヨーロッパ滞在中に亡くなった[31]。公使退任後に弁護士として民間企業に復帰した[32]

共和党員として

程度の差はあるものの、1884年から1912年まで共和党の大統領候補者あるいは副大統領候補者の指名争いにたびたびロバート・リンカーンの名前が挙がっている。しかし、本人は毎回断固として選挙戦への関心を否定し、もし候補に指名されてもいずれの立場も受け入れるつもりがない意向を明らかにしていた[33]

数奇な運命

3度の暗殺の体験

3人の大統領の暗殺事件が発生したときに、ロバート・リンカーンは偶然その場に居合わせたか、その近くにいたかのどちらかの体験をしている[34]。彼自身もこの偶然の一致を認識していた[35]

エドウィン・ブース

ロバート・リンカーンはすでに名の知れた俳優であったエドウィン・ブース英語版に死ぬか重傷を負う可能性があった汽車の事故から救助してもらったことがある。彼はその後にロバートの父親を暗殺することになるジョン・ウィルクス・ブースの兄でもあった。事故はニュージャージー州ジャージーシティの汽車の駅のプラットホーム上で発生した。正確な日付は不明であるが、ジョン・ウィルクス・ブースがリンカーン大統領を暗殺する前、ロバート自身は1863年終わりか1864年初めごろに発生したとしている。寝台車を購入するためにプラットホームで待機していたロバートは汽車が突然動き出したために足場を失ってしまった。偶然居合わせたブースがロバートが着ていたコートの襟をつかんで引き戻したおかげで、難を逃れることができた[41]

ユリシーズ・S・グラント将軍の側近となったロバートは同僚の士官大佐を務めるアダム・バドー英語版に事故のあらましを話した。ブースはその英雄的行為を称賛するバドーからの手紙を受け取るまで、救助した青年が大統領の息子であることを知らなかった。弟がリンカーン大統領を暗殺したのはそれから1年足らず後のことであった。リンカーン大統領支持派であったエドウィン・ブースにとって、この事故の記憶が暗殺事件後に少なからず慰めとなったと言われている[41][42]

晩年

リンカーン記念堂の除幕式(1922年5月30日)に出席
タイム』1926年3月8日号の表紙を飾る

ジョージ・プルマンの下でプルマン・パレスカー社の法律顧問を務め、プルマンが亡くなった1897年に同社の社長に任命された。さらに、1911年から1922年まで取締役会会長を務めた[43]

ワシントンD.C.での1922年5月30日リンカーン記念堂の除幕式に出席したが、これがロバート・リンカーンが公式の場に姿を見せた最後となった[44]

アマチュアの天文学者としてバーモント州マンチェスターヒルデン英語版天文台を建設し、1909年に作られた屈折望遠鏡を搭載した。この天文台と望遠鏡は修復されて現在も地元の天文クラブで使用されている[45]

また、熱心なゴルファーでもあった。バーモント州マンチェスターのエカノク・カントリークラブ英語版の社長を務めた[46][47]

ロバート・トッド・リンカーンが眠る石棺

1926年7月26日にロバート・トッド・リンカーンはバーモント州マンチェスターのヒルデンにおいて睡眠中に死亡した。82歳没。「動脈硬化症によって引き起こされた脳内出血」が死因とされた[32]。先に16歳で敗血症によりイギリスロンドンで亡くなった息子のエイブラハム・リンカーン2世、後に亡くなる妻のメアリーとともに、その遺体はアーリントン国立墓地埋葬されることになった[28]

ロバートはガーフィールド政権およびアーサー政権の閣僚で最後の生存者であり[28]、南北戦争を事実上終結させたアポマトックスの降伏の場の最後の生き証人でもあった[48]

ロバートの長女のマミーは一人息子のリンカーン・アイシャム英語版をもうけた。リンカーン・アイシャムは結婚したが、彼には子どもはいなかった[49]。次女のジェシーは娘のメアリー・リンカーン 「ペギー」 ベックウィズ英語版と息子のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズ英語版をもうけたが、このうちペギー・ベックウィズは生涯独身を貫いた[49]。ロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズは3度結婚したが、自分には子どもはいないと主張していた(2番目の妻であるアンナ・マリー夫人はこれを否定しており、1968年10月14日に生まれた自身の息子ティモシー・リンカーン・ベックウィズをロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズの子供と主張しているが、当のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズは1961年に精管切除術を受けており、離婚裁判所は彼が実父ではないと判断し、ロバートの主張が認められた形となった)[49]

1985年のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズの死により、エイブラハム・リンカーンの直系の血筋は断絶した[50]

脚注

  1. ^ Emerson(2012年) pp.6-7
  2. ^ Roberts(2004年) p.63
  3. ^ Reinhard Henry Luthin (1960) (英語). The Real Abraham Lincoln: A Complete One Volume History of His Life and Times. Prentice-Hall. p. 141. https://books.google.com/books?id=Jo13AAAAMAAJ&q=%22robert%22+%22lincoln%22+%22harvard%22+%22entrance%22+%22examination%22+%22subjects%22&dq=%22robert%22+%22lincoln%22+%22harvard%22+%22entrance%22+%22examination%22+%22subjects%22&hl=en&sa=X&ei=eannVKa8G4mcgwS6g4H4BQ&ved=0CCwQ6AEwAw 
  4. ^ Walter Barlow Stevens (1998) (英語). A Reporter's Lincoln. University of Nebraska Press. p. 261. ISBN 978-0803292536. https://books.google.com/books?id=-4V-ju5TEkcC&pg=PA261&dq=%22robert+Todd+Lincoln%22+%22exeter%22+%221860%22&hl=en&sa=X&ei=WqrnVLP5DsaZgwSox4C4CA&ved=0CC8Q6AEwAw#v=onepage&q=%22robert%20Todd%20Lincoln%22%20%22exeter%22%20%221860%22&f=false 
  5. ^ Emerson(2012年) p.79
  6. ^ Moses King (1881) (英語). The Harvard Register, Volume3. Harvard College. p. 378. https://books.google.com/books?id=SwQXAQAAIAAJ&pg=PA378&dq=%22robert+todd+lincoln%22+%22harvard%22+%22chicago%22+%22law+school%22&hl=en&sa=X&ei=66PnVOLEB4inNurdgkA&ved=0CDkQ6AEwAg#v=onepage&q=%22robert%20todd%20lincoln%22%20%22harvard%22%20%22chicago%22%20%22law%20school%22&f=false 
  7. ^ Burlingame(2008年) p.91
  8. ^ William Gardner Bell (1981) (英語). Secretaries of War and Secretaries of the Army. United States Army Center of Military History. p. 88. ISBN 978-0160876356. https://books.google.com/books?id=MQJLO96t2RIC&pg=PA88&dq=%22robert+todd+lincoln%22+%22harvard%22+%22chicago%22+%22law+school%22&hl=en&sa=X&ei=66PnVOLEB4inNurdgkA&ved=0CFkQ6AEwCA#v=onepage&q=%22robert%20todd%20lincoln%22%20%22harvard%22%20%22chicago%22%20%22law%20school%22&f=false 
  9. ^ a b John S. Goff (1968) (英語). Robert Todd Lincoln: A Man in His Own Right. University of Oklahoma Press. p. 68. http://books.google.com/?id=IWchAAAAMAAJ&dq=%22Robert+Todd+Lincoln%22+Appomattox&q=Appomattox#search_anchor 
  10. ^ Burlingame(2008年) pp.738-739
  11. ^ Charnwood(2009年) p.444
  12. ^ Roberts(2004年) pp.87-88
  13. ^ Emerson(2012年) p.10
  14. ^ Donald(1996年) p.159
  15. ^ Donald(1996年) p.428
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  21. ^ Emerson(2012年) p.121
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関連項目

参考文献

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外部リンク