日独伊三国同盟
日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)は、1940年(昭和15年)9月に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された軍事同盟。
条約締結式はローマで行われた。ドイツの外相リッベントロップ、イタリアの外相チアーノ、日本からは全権大使として来栖三郎が参加した。1936年(昭和11年)の日独防共協定に引き続き、アジア及びヨーロッパにおける3国の指導的地位の確認、相互が軍事的に危機に陥った場合の援助について取り決めがなされた。 同盟によって日本の対英、対米関係は極端に悪化し、太平洋戦争は不可避となった。第二次世界大戦は連合国と三国同盟(枢軸国)との戦いであった。
締結に至る経緯
ドイツ側の利害関係
アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大の為に撃破しなくてはならないと考えていた。 しかし、巨大な工業力を持つアメリカ合衆国を警戒したヒトラーはアメリカを牽制する為にアメリカ及びソ連と背後で対立する日本と手を結ぶことを考えた。
イタリア側の利害関係
第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては大誤算だった。イタリアはイギリスと交渉を根気強く進めていたのだが、ヒトラーのポーランド侵攻によって、今までのムッソリーニの努力は全て水の泡と化し、イギリス・アメリカ等の世論もムッソリーニを世界平和を乱す社会悪と認識していった。もはやイギリス、アメリカとの交渉が不可能となり、ムッソリーニは同じファシズム国である日本とも関係を強めてアジアにおけるファシズムの影響力を強め、戦後世界でのイタリアの発言力を強めようと考えていた。更に、ドイツと既に同盟を結んでいたという既成事実がイタリアの条約参加に拍車をかけた。
日本側の利害関係
日中戦争で既に莫大な戦費を費やしていた日本は蒋介石政権を支援するアメリカと鋭く対立していた。 欧州戦線にて快進撃を続けるナチス・ドイツを見て日本政府はドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考えた。三国同盟の締結に対し英米協調派が比較的多かった海軍は反発した。 山本五十六、井上成美、米内光政は「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。 他にも岡田啓介、小沢治三郎、鈴木貫太郎、陸軍では石原莞爾などが条約締結に反対していた。閣内でも吉田善吾海軍大臣、石黒忠篤農林大臣らは反対を唱えたが、吉田海軍大臣の病気辞任と後任の及川海軍大臣、近衛・松岡らの説得によって北守南進の国策に沿って条約締結に進んだ。
こうして利害関係の一致を見た日独伊は軍事同盟を締結するに至る。
締結とその後の状況
松岡洋右は日ソ中立条約によって三国同盟にソ連も参加させて四国同盟を形成して、四カ国によってアメリカに対抗する構想を考えていた。しかし、独ソ戦によってその構想は消えてしまった。
後にハンガリー、ルーマニアが、1941年(昭和16年)にはブルガリアが加盟した。
日米開戦直前、来栖三郎が対米講和の特命全権大使に任命され、野村吉三郎駐米大使を補佐した。しかし、来栖は日独伊軍事同盟の調印者であり、逆にアメリカの感情を逆撫でしたものとして、対米交渉が不調に終わった一因にされたとも言われている。
真珠湾攻撃の直後、ドイツ・イタリアもアメリカへ宣戦布告した。その後3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結された(連合国側もこれに対抗して翌年1月1日に同様の宣言を発している)。
1945年(昭和20年)1月19日、連合国に降伏したイタリアが同盟を破棄、同年5月7日にドイツが、8月15日に日本が降伏し、三国軍事同盟は消滅した。
関連人��
- 大島 浩(元駐ドイツ日本大使)
- 松岡洋右(日本外相)
- アドルフ・ヒトラー
- 来栖三郎(駐ドイツ日本大使)
- ベニート・ムッソリーニ(イタリア統領)
- ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(ドイツ外相)
- ガレアッツォ・チャーノ(イタリア外相)