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泊園書院

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泊園書院(はくえんしょいん)は江戸時代後期の文政8年(1825年)、四国高松出身の藤沢東畡(1794-1864)によって大坂市中に開かれた漢学塾である。荻生徂徠古文辞学を受けつぎ、経書や諸子、歴史、文学にわたる該博な知識をもっていた東畡により、幕末期、泊園書院は懐徳堂をしのぐ大坂最大の私塾として栄えた。

概要

明治6年(1873年)、書院を再興した東畡の子の藤沢南岳(1842-1920)は高松藩の危機を救った功労者として、また当代随一の学匠として名声高く、その学徳を慕って全国から学生が集まった。その著作もきわめて多数にのぼる。南岳はまた、大阪の通天閣森下仁丹株式会社仁丹、日本最初の民間幼稚園・愛珠幼稚園の命名者であり、大阪を代表する文化人として活躍した。

南岳の長子藤沢黄鵠(1874-1924)、次子藤沢黄坡(1876-1948)も書院の活動をよく継承し、漢学振興と漢詩文普及のために尽くした。黄坡は戦後まもなく関西大学最初の名誉教授となった。また、黄坡義弟の石濱純太郎(1888-1968)は内藤湖南に師事し、黄坡と力を合わせて書院の講学にとりくむとともに、東洋の諸言語に精通して西夏文字研究の先駆者となった。関西大学における最初の文学博士号取得者であり、大阪文化の研究者としても著名である。

江戸後期から明治・大正・昭和の戦前という激動期の中、泊園書院は政界・官界・実業界・教育界・ジャーナリズム・学術・文芸などの分野に有為の人材を輩出し、文化・教育の発展に多大な貢献を残した。

戦後、同書院の蔵書や書画、印章などが一括寄贈され、関西大学総合図書館に「泊園文庫」として収蔵されることになった。泊園文庫は一万六千五百点余、二万数千冊にのぼる書籍を中心に、東畡以下、泊園院主の自筆稿本約六百二十点余、さらに印章百七十顆、多数の書画を含む一大コレクションである。まさに漢籍の宝庫であり、日本近世・近代における大阪文化の縮図ともなっている。

泊園書院出身者

泊園書院出身の主な人物には次の人々がいる。

参考文献

  • 吾妻重二編著『泊園書院歴史資料集――泊園書院資料集成1』(関西大学東西学術研究所資料叢刊29-1、関西大学出版部、2010年10月)

外部リンク