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夜見町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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夜見村
廃止日 1954年6月1日
廃止理由 編入合併
夜見村大篠津村崎津村彦名村富益村
巌村成実村和田村米子市
現在の自治体 米子市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
西伯郡
夜見村役場
所在地 鳥取県西伯郡夜見村
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夜見村 (よみむら)は、かつて鳥取県に存在した。現在の鳥取県米子市夜見町。

夜見村開村

境村、余子神社神官、森守祥の次男六郎右衛門守連らが1679年官許を得て開発する。 [1] [2]

夜見に現存している旧家

夜見に現存している旧家と、その元祖、元祖死亡年、出身地は以下の通り。

地名 - 上谷

  • 六右衛門(足立氏)享保19年(1734年)、?
  • 孫右衛門(西村氏)、享保11年(1726年)、夜見分家(境)
  • 九右衛門(森氏)、寛保2年(1742年)、夜見分家(境)
  • 兵右衛門(足立氏)、?、夜見分家
  • 善右衛門(足立氏)、享保11年(1726年)、中野村
  • 甚兵衛(西村氏)、享保20年(1735年)、境村
  • 五郎左衛門(足立氏)、元禄11年(1698年)、境村
  • 由右衛門(森氏)、明和8年(1771年)、粟島
  • 弥平(足立氏)、享保11年(1726年)、小篠津
  • 六郎右衛門(森氏)、元禄14年(1701年)、境村
  • 磯右衛門(森氏)、享保19年(1734年)、夜見分家(境)
  • 三郎右衛門(浜田氏)、天明2年(1782年)、境村

地名 - 中谷

  • 治左衛門(足立氏)、享保19年(1734年)、?
  • 三郎右衛門(浜田氏)、天明2年(1782年)、境村
  • 魯助(渡辺氏)、文化7年(1810年)、境村
  • 治良右衛門(足立氏)、?、境村
  • 与次兵衛(足立氏)、明和元年(1764年)、夜見分家
  • 重兵衛(矢倉氏)、文化11年(1814年)、大崎村

地名 - 樋口

地名 - 上新田

  • 次郎吉(桑垣氏)、?、大根島
  • 徳兵衛(門脇氏)、元文2年(1737年)、大根島
  • 弥三郎(松本氏)、宝暦14年(1764年)、大根島
  • 武右衛門(松本氏)、宝暦13年(1763年)、大根島
  • 一郎兵衛(渡辺氏)、?、大根島
  • ?(松本氏)、寛延3年(1750年)、日野郡

地名 - 下新田

  • 弥平治(渡部氏)、安永10年(1781年)、大根島
  • 甚五郎(柏木氏)、享保18年(1733年)、大根島

夜見村の由来

元禄15年(1702年)に“境村新田”を“夜見村”と改めているがこの村名由来について『伯耆志』、『夜見神社記』に「夜見島(古事記の黄泉島)ノ古名存セシ故ナリ」となっている。しかし初代森六郎右衛門が生家余子神社の旧姓“夜見島宿弥”の夜見をとって“夜見村”としたことは間違いないと考えられている[3]

夜見村の自治

江戸時代、役職として庄屋の上には大庄屋、宗旨庄屋があり庄屋の下に年寄、物書き、組頭、小頭があった。

大庄屋

森六郎右衛門 、元文4年(1739年[4]

庄屋

  • 初代 西村孫右衛門   安永5年(1776年
  • 2代  森幸七     寛政元年(1789年
  • 3代  森宇右衛門   文化3年(1806年
  • 4代  森磯右衛門   天保3年(1832年
  • 5代  矢倉甚平    天保12年(1841年
  • 6代  森清二郎    天保13年(1842年
  • 7代  柏木甚五郎   弘化2年(1845年
  • 8代  森磯右衛門   嘉永元年(1848年
  • 9代  安田彦平    安政2年(1855年
  • 10代 角儀右衛門    安政3年(1856年
  • 11代 倉郷周助     文久元年(1861年
  • 12代 森五郎右衛門   慶應2年(1866年

村長

  • 初代 柏木大五郎    明治22年(1889年
  • 2代 松本民四郎    明治24年(1891年
  • 3代 森磯吉      明治25年(1892年
  • 4代 森磯吉      明治28年(1895年
  • 5代 柏木新多郎    明治31年(1898年
  • 6代 森磯吉      明治32年(1899年
  • 7代 足立直四郎    明治36年(1903年
  • 8代 松本萬蔵     明治38年(1905年
  • 9代 足立芳彦     明治41年(1908年
  • 10代 松本宜春     大正2年(1913年
  • 11代 森磯吉      大正3年(1914年
  • 12代 本池豊      大正9年(1920年
  • 13代 松本正人     大正11年(1922年
  • 14代 松本正人     大正15年(1926年
  • 15代 松本正人     昭和2年(1927年
  • 16代 森磯吉      昭和5年(1930年
  • 17代 松本芳登     昭和8年(1933年
  • 18代 松本芳登     昭和12年(1937年
  • 19代 松本芳登     昭和16年(1941年
  • 20代 森忠知      昭和18年(1943年
  • 21代 森川恒作     昭和22年(1947年
  • 22代 森川恒作     昭和26年(1951年

夜見村における姓名と屋号

村内に同姓が多いため屋号がある。[5]

地名 - 上谷

  • 古屋(森氏) - 初代森六郎右衛門の長男の家筋で、開発当初の最初の家屋のあった所を長男に与えたものという。
  • 中屋敷(森氏) - 六郎右衛門の次男、三子の中を取ったものという。
  • 大森(森氏) - 六郎右衛門の三男、“森家が大いに繁昌するように”とも、又、家の周辺に大きな松の木があったからともいわれている。
  • 中屋(森氏) - 中屋敷5代目磯右衛門の時に、分家し、中屋とよばれる。
  • 問屋(森氏) - 大森分家で木綿肥料、海産物の問屋をしていた頃があり、持ち舟もあり、広く交易していたといわれる。元資生堂社長森治樹は問屋系の出身である。[6]
  • 先灘(森氏) - 川の端分家。夜見の村はずれの先の灘近くに家があったため。
  • 森次茶屋(森次氏) - 古屋の分家で森を次ぐ者の意。昔、上谷で茶屋を開いていたという。
  • 大篠津屋(安田氏) - 大森(時代不明)の娘が大篠津村安田家へ嫁いだが、故あって夫婦帰村し、夜見に居ついたもの。
  • 大西(西村氏) - 西村家系の本家といわれ、六郎右衛門について来村した甚七(甚八)の家筋とされている。
  • 庄屋(西村氏) - 甚七の次男の家系で安永5年(1776年)村の初代庄屋 をつとめたため。
  • はずれ(西村氏) - 同西村の分家で米子への旧道の村はずれにあったため。
  • いいぼし屋(西村氏) - 同西村の分家。千鰯の売買を業としていたためか?
  • 玉屋(西村氏) - 同西村の分家。飴玉を売っていたともいい、玉の出荷を取り扱っていたためともいわれている。
  • 元足立(足立氏) - 夜見の足立で最も古い家とされている。
  • 足立本家(足立氏) - 元足立の分家 先祖に造り酒屋があり天秤に担いで米子まで行商し財をなしたという。

地名 - 中谷

  • ラジオ屋(渡辺氏) - 渡辺医院の分家。戦争中、神戸より帰郷し、ラジオの修理、販売したため。
  • 久紺屋(足立氏) - 明治の初め頃まで染物業を営んでいた。
  • 新宅(渡辺氏) - 渡辺医院より分家した新しい家。

地名 - 樋口

  • 川の端(森氏) - 古屋の分家。
  • 渡屋(松本氏) - 渡村より来村したため。

地名 - 上新田

  • 弥平治屋(渡部氏) - 享保年間(1716年 - 1733年)米川開通と殆ど同時に入植した夜見新田の旧家で、造り酒屋をしていた。
  • 上松本(松本氏) - 享保年間(1716年-1733年)に大根島より移住しているといわれる 藩政時代、綿作りと油の行商で財を成し、その後、造り酒屋をした。
  • 日野屋(松本氏) - 日野郡より来村したためで、下松本の本家筋にあたる。

地名 - 下新田

  • 下松本(松本氏) - 日野屋の分家 綿作と明治以降の養蚕業で財をなした。
  • 西渡部(渡部氏) - 弥平治屋の西分家である。

出身人物

年表

  • 1669年 - 境村、森六郎右衛門(初代)が夜見の地を開墾し始める。
  • 1679年 - 境村、森六郎右衛門(初代)が治郎右衛門、三右衛門、安右衛門、甚八らとその家族を率い夜見に転居。
  • 1688年 - 夜見、券面下附、“境村新田”と称す。
  • 1701年 - 森六郎右衛門(初代)死去。
  • 1702年 - 村号を請願し、“夜見村”として境村より独立。
  • 1726年頃 - 夜見新田に柏木家、松本家らの入植開拓始まる。
  • 1739年 - 五左衛門(六郎右衛門(3代))、大庄屋役仰付けられる。
  • 1741年 - 五左衛門(六郎右衛門(3代))、ロ会見郡大庄屋となる。
  • 1743年 - 六郎右衛門(2代)死去。
  • 1747年 - 五左衛門(六郎右衛門(3代))、苗字帯刀許可。
  • 1760年頃 - 大庄屋森六郎右衛門(3代)曲り松村(現福定村)の村名変更願い出す。
  • 1765年 - 森六郎右衛門(3代)大庄屋役御免願い出る。
  • 1774年 - 六郎右衛門(3代)死去。
  • 1880年 - 境町本町(現境港市)で夜見開村200年記念祝賀会行われる。
  • 1883年 - 夜見村で弥平治屋騒動おこる。

事件

弥平治屋騒動 夜見村下新田の地酒屋渡部弥平治は通称“弥平治屋”と呼ばれており享保12・3年頃、米川の通水に前後して大根島より移住してきた渡部家の一家で、作り、綿作りの成功から産をなし 近年に至って造り酒をはじめ、これも成功して杜氏も2、3人常雇するまでになっている。この渡部家は源頼光四天王渡部綱の末裔と伝えられ、戦国末期に大根島に住みついたもので家伝のがいつも欄間に飾られていた。そのような家系からか弥平治は体のひ弱な長男弥一を別家に出し次男の弥平に跡を継がせている。弥平は気難しく厳格な性格であったのに反し、その息子の忠四郎は自堕落な上に短気な性格で家庭内の不和が絶えなかった。忠四郎が嫁を貰って数年間はその身持ちも少しは良くなったが、一昨年頃より父の弥平と嫁の仲が悪くなり、家風にそわぬと言って実家に帰してから忠四郎の素行が再び悪くなって来ている。日頃の不平不満を父の弥平に当たることも出来ず境町に出て、ばくちにうつつをぬかし、女郎を買ったりして日々を過ごしていた。父の弥平は忠四郎の妹はるのとその婿を大事にし、屋敷内に世帯を持たせる事にした。弥平の兄の弥一も初め忠四郎に同情していたがその素行から次第に疎遠となって忠四郎は次第に孤立してくる。財産相続も妹夫婦に渡る様な噂もちらほら耳にする様になって愈々狭められた雰囲気の中に気分がうっ積してくる。その様な夏の一夜の事である。妹夫婦とのいざこざ問答があり、忠四郎は家を飛び出し、夜見、富益の一杯飲み屋や、友達の家を飲みまわって帰った。しかし、妹はるのは下手の伯父夫婦の所に居ることを聞きそこを訪れる。再び激しい口論のやりとりから財産相続にまで話が進み、かっとなった忠四郎は我が家にとって返し、家伝の欄間から取り、前後の見境もつかなくなって伯父夫婦を刺殺し、妹はるのの胸も刺し通した。この騒動を聞いた婿は家を飛び出し夜道を粟島境までにげた。隣部屋にははるのの子供とほるが一人すやすや寝ていた。忠四郎はその子には手を出さず外に飛び出し我が家の酒蔵に入り酒を2、3杯あおり飲んでそのあと10石樽の栓を抜いた。弥一夫婦とはるのの悲鳴を聞いた家人杜氏や近所の人々は屋敷内一面に溢れた酒の匂いと血なまぐさい現場に呆然とするしかなかった。やがて米川の黄櫨の木に首を吊った忠四郎を見つけたのは明け方に近かった。その後、上松本家が酒造業を弥平治屋より譲り受け、杜氏達も引き取り繁昌したが、弥平治屋は衰退していった。時は明治16年(1883年)8月11日の事で 忠四郎35歳、妹はるの21歳の時であったという。[7]

参考文献

  • 森納夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 1975年

関連項目

脚注

  1. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 3頁- 森治部守祥と六郎右衛門守連との関係について森治部の次男とするものは夜見神社記、大森家文書、夜見村荒神記、余子神社由緒等あるが、一方その弟とするものは、境港沿革史、夜見要録、弓浜民談抄等がある。
  2. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 121頁 - 境村の旧記では西小路、森家は境旧家29の1つとされ古い家系を誇っていた。その家系図によれば人皇7代孝霊天皇の皇子正武彦命から45代餘見島宿弥守明の折、源義親との婚姻の伝承があり、それより9代守侶の時に後醍醐天皇より源姓と餘戸家の家号を賜ったとある。その頃から明応9年の棟札に至るまで“宮脇姓”で森家の家系図で森姓と明記されているのは森次右衛門守祥の父森豊前守守益の時で、その代か、あるいは一つ先代の時頃に、森姓に移ったと推定されている。何故森姓に移ったかは明らかでない。
  3. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 9頁
  4. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 248、306頁 - 初め“五左衛門”と名乗り1747年苗字帯刀を許され“森五左衛門”となり父の死去数年を経て“六郎右衛門”襲名に願い出て許可されている。
  5. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 247-253頁
  6. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 196頁
  7. ^ 夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 187-188頁

外部リンク