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保姫

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保姫やすひめ1753年12月20日1787年10月14日)は薩摩藩主・島津重豪の正室。父は徳川御三卿一橋徳川家当主・徳川宗尹。母は側室・おゆかの方(細田氏)。同母兄に徳川治済。祖父は8代将軍・徳川吉宗である。院号は慈照院。

保姫は1753年12月20日江戸城一橋門内の一橋邸にて誕生した。

保姫は義理の伯母(8代将軍・吉宗養女)にあたる浄岸院(竹姫、島津継豊室)が義理の孫・島津重豪の正室には、将軍家に血筋が近い姫君を望み、養父・吉宗の孫・保姫の輿入れを保姫の父・宗尹や幕府に願い出て、1862年に婚姻が成立した(浄岸院は徳川綱吉吉宗養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、保姫と重豪の婚姻をやむなく幕府が認めた)。

同年のうちに保姫は浄岸院の住む高輪の薩摩藩上屋敷に輿入れしたが、夫の重豪と顔を会せるのは1年後の1863年の事である。

浄岸院は徳川家と島津家の血を引く島津家の世継ぎ誕生を望み、保姫を輿入れさせるも、保姫は子を生まぬまま、1787年10月14日に江戸の高輪藩邸にて死去した。

11代将軍・徳川家斉は兄・治済の子であり、その御台所・茂姫は夫・重豪が側室に生ませた子であるため、家斉と茂姫は、保姫を通じて義理の甥と姪という事になる。