高級住宅街
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高級住宅街(こうきゅうじゅうたくがい)とは、高級な住宅が多くある、もしくは高級な雰囲気を持つ住宅街のことである。
概要
定義は多分に主観的であり、下記の要件についても国や地域・時代によっても認識は多様となる。相対的に高価な住宅価格を伴うことが一般的である(土地価格比準表(六次改訂)地価調査研究会ISBN 4-7892-1775-2、不動産鑑定評価基準)。日本においては、「敷地が広く」「建築の施工の質が高い建物」を「優良な住宅」とされ、「街区及び画地が整然とし、植生と眺望、景観等が優れ」「良好な近隣環境を形成する」等の要件を満たした地域を「居住環境の極めて良好な地域で従来から名声の高い住宅地域」とされている。
- 「優良な住宅」
敷地の広さについては、国、地域等にもよるが、現代の日本の都市部では、少なくとも300平方メートル超の整形、平坦な土地は、この要件を満たしていると言うべきである。検証は、日本各地の戸建住宅地の住宅地図を参照する等されたい。
建築の施工についての具体的な点については、各種専門資料等を参照されたい。建物の「設計」については触れられてなく、建物のデザイン的なものは必ずしも要件とはされていない。
- 「良好な近隣環境」
「街区及び画地が整然」ということは、計画的に造成された住宅地域に該当するものは多く見られるが、上記「優良な住宅」の建つ画地、街区が整然としていることが要件となる。日本においては、相続等に際して画地の細分化(いわゆるミニ開発)等が見られるため、建物の最低敷地面積の規制がなされることもある(この規制は高級住宅地に限らない)。
- 「名声の高い」
いわゆるブランドイメージが挙げられる。住宅地の地価はブランドイメージによっても左右されるが、高級住宅街についてはその傾向が顕著に見られる。そこに住んでいるということがステイタス的なイメージを帯びることも見られる。
日本における高級住宅街
「高級住宅地」とも呼ばれる。
代表的な高級住宅地
近畿圏では、明治時代に開発された大阪市の帝塚山をはじめ芦屋市の六麓荘町、平田町や京都市の下鴨、衣笠、御室などのように戦前に開発された邸宅街が多いのが特徴である。 阪急の小林一三が沿線人口の少ない後発私鉄の経営者として考案した私鉄経営の方法はその後多くの私鉄に模倣、踏襲されるが、その一つが大阪府池田市室町を嚆矢とする阪神間の住宅開発であった。 御影・住吉・芦屋 に代表される阪神間は明治以降、大阪の富裕な商人=ブルジョワ市民階級や神戸の貿易商の別荘地として開発されたので、非常にモダンでハイカラな、文化水準の高い土地となっていった。そこを大正期以降、当時の社会に登場した新興階層である大学卒のインテリサラリーマン=無産中流階級用の住宅地として、私鉄資本が開発し売り出したのである。 無産中流階級とはいえ、当時の中流は今とは全く違い、女中を雇うのが当り前の生活で、当然、敷地も百坪前後が普通であった。よってその頃のサラリーマン用住宅地が、今では閑静な邸宅の建ち並ぶお屋敷街として有名となっているのだ。従って阪神、阪急沿線だけではなく、南海、近鉄など関西の大手私鉄の沿線には阪神間の飛び地のような形で、昭和初期の雰囲気を今に伝える高級住宅地が点在している。
首都圏では、明治時代に大名屋敷跡を住宅として分譲された松濤、島津山(東五反田3丁目の一部)、池田山(東五反田5丁目の一部)や、広尾、麻布、高輪、白金、目白などの高台がそれにあたる。高級住宅地として広く認知されるようになったのは、1923年(大正12年)に田園都市株式会社によって開発された田園調布が最初で、その他成城学園によって開発された成城、東武鉄道によって開発された常盤台、箱根土地によって開発された目白文化村(中落合)などがある。首都圏近郊の戦後開発された場所の知名度は高くない。
関連項目
- 阪神間モダニズム
- ワンハンドレッドヒルズ -バブル期に開発された千葉県千葉市の住宅地