コンテンツにスキップ

和田敏明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2024年9月7日 (土) 23:30; 海松食 (会話 | 投稿記録) による版 (没年月日判明による加筆ほか)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
和田敏明

和田 敏明(わだ としあき、1905年明治38年)4月28日[1] - 1990年平成2年)11月21日[2])は、日本政治家衆議院議員(1期)、日本社会党所属。徳島県出身[3]

経歴

[編集]

1929年(昭和4年)、東京帝国大学政治科卒[3]東京日日新聞に入り、同社スラバヤ支局長[3]毎日新聞サイゴン支局長、調査研究部長を経て[3]、北海道日日新聞社取締役主筆となる[3]1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙北海道2区・日本社会党公認・20249票獲得)において初当選[4][5]1948年(昭和23年)12月23日衆議院解散馴れ合い解散)により議員失職。翌1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で(北海道2区・日本社会党公認・13034票獲得)落選[5]1950年(昭和25年)10月、日本社会党から除名された[6]。以後、足立梅市らと共に社会党再建全国連絡会結成に参加。1952年(昭和27年)第25回衆議院議員総選挙東京7区・社会党��建全国連絡会公認・13683票獲得)で落選[7]1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙(東京7区・社会党再建全国連絡会公認・12410票獲得)でも落選[7]

その後、1965年(昭和40年)、日ソ交流協会の設立に関与した。株式会社日ソ旅行社(現・ロシア旅行社)の設立を提案した[8]1987年(昭和62年)、同社社長に就任した[8]

1990年(平成2年)に死去した。

人物

[編集]

安楽死の批判について、和田は批判者に対し「不要の生命を抹殺するってことは、社会的不要の生命を抹殺ってことはいいんじゃないの。あのナチスのやった虐殺とね、区別しなければ」として安楽死を肯定していた。

チャールズ・マンゲル著作の(死を選ぶ権利―脳神経外科医の安楽死の記録)の翻訳に関わっている。

脚注

[編集]
  1. ^ 『読売年鑑 昭和28年版』424頁。
  2. ^ 『歴代國会議員名鑑 中巻』2226頁。
  3. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』718頁。
  4. ^ 和田敏明 衆議院議員 国会議員白書
  5. ^ a b 『朝日選挙大観』444頁。
  6. ^ 読売新聞 1950年10月12日 社党・和田敏明氏を除名
  7. ^ a b 『朝日選挙大観』484頁。
  8. ^ a b (株)ロシア旅行社 会社案内※2020年4月18日閲覧

参考文献

[編集]
  • 読売新聞社編『読売年鑑 昭和28年版』読売新聞社、1952年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
  • 「歴代国会議員名鑑」編纂委員会編『歴代國会議員名鑑 中巻』議会制度研究会、1995年。