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軍用手票

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連合国軍がフランスで使用した500フラン軍用手票 (1944年)

軍用手票(ぐんようしゅひょう、military currency、military payment certificate)とは、戦争時において占領地もしくは勢力下にて軍隊が現地からの物資調達及びその他の支払いのために発行される擬似紙幣である。政府紙幣の一種と解されることもある[1]。略して「軍票(ぐんぴょう)」と呼ぶことが一般的である。軍隊が通貨の代用として使用する手形[2]ないし占領軍の交付する代用貨幣[3]であり、最終的には、その軍隊が所属する政府によって軍票所持者に対し債務支払いを行う必要があるが、敗戦国の場合、支払能力がないため反故にされる場合もある。また第二次世界大戦の敗戦国である日本の場合、かつて戦時国際法上、個人に対する戦争被害を敗戦国が補償する義務がなく、また連合国側が軍票の支払い義務を免除したため、後に国際問題になったことがある。

概要

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軍隊は食料などの物資を現地調達する。それは一方的な物資徴発、ともすれば略奪であった。しかし、そのようなやり方は外聞が悪く、徴発相手の反感を招く。そのため近代以降の戦争では各国軍隊が軍票によって物資を購入するという形を採るようになった。このような軍票を初めて発行したのが英仏戦争時のイギリス1815年のことであった[4]。その後紙幣のようなものに進化した。1907年に締結されたハーグ陸戦条約で、条約締結国は戦時下の占領地で徴発する行為が禁止され、同条約第52条に「現品を供給させる場合には、住民に対して即金を支払わなければならない、それが出来ない場合には領収書を発行して速やかに支払いを履行すること」とされ、現金もしくは軍票で代償を支払うこととされた[5]

このように軍隊が所属する国家の通貨制度とは分離して軍票を使用する制度を用いるのは、金本位制の下で兌換通貨たる法貨を一度に大量に流通させると通貨供給量が激増し、結果的にインフレーションで経済破綻する恐れがあるためであり、臨時通貨として信用を本位金にではなく発行体(国庫)に紐づけすることで事実上の信用通貨(手形)としてこれを抑止すること、また敵国に大量に略奪された際にただちに切り替えが可能であるなど、戦略面からの要請があるためである。また発行体の保証する事実上の手形であるため、発行体が現有する手持の貴金属による支払いに拘束されることがなく、実際の経済力以上の物資の徴発も可能でもある。また西南戦争時の西郷札のように反政府軍が勝手に印刷[注釈 1]し流通させたものや、沖縄県の久米島を占領したアメリカ軍の一部隊が軍中枢の許諾なしに謄写版で印刷し勝手に発行した久米島紙幣もある[6]

以上のように、軍票は通貨のような体裁と流通機能を有しているが、最終的には相手国政府当局に提出して現金化もしくは貴金属による交換をする事が必要である。ただし、軍票を法定通貨として流通させることもある。一例として、太平洋戦争中に香港を占領した日本軍は、軍票を発行し通貨として流通させていたが、1943年6月には軍票を唯一の通貨と定め、軍票以外の流通を禁止し、所有している香港ドルは軍票と交換させ、違反者には厳罰を課した[7]。また太平洋戦争終結後日本を占領した米軍は、B記号軍票を日本本土や琉球諸島で使用した[8]。このとき大蔵省は省令により、米軍軍票を日本の法定通貨とし公私一切の取引に無制限に通用するものとした[9]

日本軍用手票の性格

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岩武照彦(1980)[3]は、以下の様に分析している。

軍票の性格について、有賀長雄は徴発証券説をとり、軍票は貨幣ではなく徴発物件および労力に対して国際法規に基づき占領軍の公布する証券であるとの説を採る[10]。これはハーグ条約附属陸戦法規規則52条3項に根拠をもとめているが、軍票は同規定にいう現金ないし現地通貨ではないが、定額証券なので「受取証」とは言い得ない。森武雄(元陸軍主計中将)は「軍票なる特殊の貨幣代用券」とし[11]、津下剛は日清日露戦争時の軍用手票について「日本政府が満州の占領地に於いて発行した紙幣」と規定する[12]。大蔵省理財局は軍票の法律的性質を次のように説明している[13]

  1. 法律ノ根拠ニ基クモノニ非ズ且法律上ノ強制通用力ヲ有セザルヲ以テ厳格ナル意義ニ於ケル通貨ニハ非ザルモ
  2. 無期間、無利子、無記名ノ定額証券ニシテ債務者ガ之ニ依ル支払ヲ受諾スル限リ有効ナル弁済ヲ為シ得ルモノナルヲ以テ
  3. 専ラ国外ノ派遣地ニ於ケル軍費支払ノ便ニ供セラレ且法律上ノ強制通用力ヲ有セザル政府発行ノ兌換紙幣ニ準ズル性質ヲ有スルモノト謂フコトヲ得ベシ

華中で一般通貨として使用されつつあったことに関しては以下のようにしている[14]

  1. 現ニ事実上一般通貨トシテ流通スル以上之ニ依リ軍費支払ノ円滑ヲ期シ得、従テ軍費支払ノ便ニ供スルト謂フ軍用手票発行ノ本来ノ目的ヲ達シ得ルモノト謂フベク決シテ其ノ本質ニ反スルモノニ非ズ

各国の軍票

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1ドル軍用手票 (1970 - 1973)

第二次世界大戦中には連合国側も発行していたほか、第二次世界大戦後もアメリカ合衆国が世界各地の米軍基地の兵士の給料として米ドル建ての軍票を、1970年代ごろまで支給し使用していた。またベトナム戦争に派遣された韓国陸軍もベトナムで使用する軍票を発行していたほか、イギリス軍も世界各国の基地内で使用する軍票を発行していたこともある。

第二次世界大戦中のアメリカではAllied Military Currencyという軍用手票が発行されていた。第二次世界大戦後からベトナム戦争の終わりまでMilitary Payment Certificate(略称MPC)という米ドル立て軍用手票が発行されベトナムで流通していた。同じくベトナム戦争に派遣された韓国軍も同様の軍票(アメリカ・ドル建)を使用していた。

1990年代になるとアメリカ���は紙の軍用手票の発行を辞めプリペイドカード方式へと移行した。

日本の軍票

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日本においては、西南戦争の際に西郷隆盛が使用した西郷札が軍票の最初であるとされ、その後日清戦争日露戦争、第一次世界大戦(青島攻略戦)などの対外戦争で日本政府が占領地で発行しており、日中戦争太平洋戦争大東亜戦争)では中国および東南アジアの占領地各地で現地通貨建てのものが使用された。また戦後アメリカ軍の占領下に置かれた沖縄奄美で使用されたB円もアメリカ軍が発行した軍票の一種である。

軍票は、臨時軍事費特別会計の執行として軍票の発行体から資金を借り受けて現地で使用され、あるいは兵士・軍属の月俸として使用されたり、民間企業の決済用資金として貸し出されたりするものであったが、すべては臨軍特会を媒介にした清算処理が必要であり、太平洋戦争のように広範囲で多種多様な軍票が使用されたさいには軍票間の、あるいは日本銀行券と軍票間での決済処理は非常に困難を極めた。また戦争の長期化により現地物資の枯渇によるインフレ、およびそれに対処するための臨軍特会の膨張、および軍票の大量流通が、さらなるインフレーションなどの経済的混乱を招く結果となった[15]

中国戦線で使用した日本円以外にもペソグルデンなどのさまざまな通貨単位の軍用手票が各占領地で発行された。発行者は政府名義になっているものが多いが、中には南方開発金庫などの日本が設立した現地金融機関が発行した場合もあった。また、対ソ戦を想定しルーブル表示の軍票も試作されたが、実際に使われることは無かった[16]

日本の軍票シリーズ

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太平洋戦争中、蘭領東インドで日本軍が使用した10グルデン軍票(1942年)
太平洋戦争中、英領ビルマで日本軍が使用した1/2ルピー軍票(1942年)
太平洋戦争中、フィリピンで日本軍が使用した10ペソ軍票(1942年)
太平洋戦争中、マレー半島で日本軍が使用した100ドル軍票(1942年)
太平洋戦争中、南太平洋地域で日本軍が使用した1シリング軍票(1942年)

日本貨幣商協同組合『日本貨幣カタログ2007』によれば、日本軍が発行した軍票を次のシリーズに分類している。なお、日清戦争から日華事変甲号軍票までは明治時代に発行された明治通宝とよばれる政府紙幣のデザインを踏襲した縦型のものを使っていたが、その後は銀行券スタイルのものが発行されるようになった。

  • 日清戦争軍票(両単位)
    • 1895年に勃発した日清戦争で発行、2銭5分、5銭、1・5・10両の清時代の通貨単位の軍票を1895年2月に発行したが、戦争が予想よりも速く終結し、あまり軍票を発行することがなかったため、ほぼ全量が回収された。そのため通用券で現存が確認されているのは1両軍票数枚のみ(その他の額面の券も見本券は現存する)という珍品である。
  • 日露戦争軍票(銀円単位)
    • 日露関係険悪化のため、戦争開始前に用意されていたため、日露戦争開始直後の1905年2月に発行。清国や朝鮮で使用するために、朝鮮語(ハングル)による表記がされていた。10・20・50銭、1・5・10円が発行され大量に流通した。戦後多くが回収されたが、従軍した日本軍兵士が低額券を戦勝記念に持ち帰ったため、比較的入手しやすい。
    • 戦地で軍票額面価格を維持するために、いつでも正銀貨と引換を希望すれば、戦地所在の横浜正金銀行各支店、内地指定の金庫、韓国金庫派出所、野戦郵便局、韓国、北中国所在の日本普通郵便局、第一銀行出張所で軍票を受入れた。明治38年6月末までに軍票の発行高は金1億4054万5000円であった。
  • 青島出兵軍票(銀円単位)
    • 第一次世界大戦勃発に伴い、日英同盟に基づき日本はドイツ帝国に宣戦布告。当時ドイツが中国に持っていた山東半島の租借地を占領する軍事作戦を展開したが、この時に占領地で使用するために1914年9月に10・20・50銭、1・5・10円が発行された。1926年の統計によれば青島出兵で発行された総金額は11,812,197円で、そのうち161,956円が未回収とされている。そのため残存数が少なく比較的高価なプレミアで取引をされている。
  • シベリア出兵軍票(金円単位)
    • 第一次世界大戦末期にロシア11月革命が発生し、史上初の社会主義政権が誕生した。皇帝派と革命政権派の間で激しい内戦が行われたが、世界の列強がチェコスロバキア軍救援を口実にシベリアに出兵した。日本もシベリアに出兵したが、シベリアや北満州で使用するために1919年8月に金兌換を保証した10・20・50銭、1・5・10円が発行された。そのため、日本語とともにロシア語による表記がなされている。
  • 日華事変軍票(銀円単位)
    • 1937年には日華事変(盧溝橋事件日中戦争)が勃発し、事実上全面戦争に突入した。当時の中国では満州では日系の朝鮮銀行券(日本円と等価)や満州中央銀行券(単位は円)が流通しており、上海では正金銀行が発行する日本銀行券も流通していた。また事変以降は、日本側が各地に設置した中国聯合準備銀行聯銀券蒙疆銀行蒙疆銀行券(蒙疆券)中央儲備銀行中央儲備銀行券(儲備券)など20行以上の銀行から発���された銀行券が使用された。1938年(中華民国27年)11月には、華中華北における軍用票使用が定められ(中国語:华中、华南使用军用票之办法)、日本軍は戦争の進展に応じ様々な軍票を発行したが、この軍票だけでも多くのシリーズがあり種類も多い。この日華事変軍票の各シリーズの券には、裏面に兌換文言及び偽造変造罰則文言として、「此票一到即換正面所開日本通貨/如有僞造變造仿造或知情行使者均應重罰不貸」と記載されている。
      甲号券
      日本軍が従来発行していたスタイルの縦型の軍票。1937年に発行されたが、デザインが明治通宝のものを用いたため陳腐化しており、額面300万円しか使われなかった。10円・5円・1円・50銭・10銭の額面がある。
      乙号券
      当時の日本銀行兌換券のデザインはそのままに、「日本銀行兌換券」等の文字を抹消し、「軍用手票」と大きく印刷して発行。100円・10円・5円・1円の額面がある。
      丙号券
      これも当時の日本銀行兌換券のデザインはそのままに、日本銀行の文字を印刷していない紙幣に「大日本帝国政府軍用手票」の文字を印刷して発行。100円・10円・5円・1円の額面がある。
      丁号券
      鳳凰や龍といったデザインに変更した「大日本帝国政府軍票手票」として発行。10円・5円・1円・50銭・10銭・5銭・1銭の額面がある。
      戊号券
      丁号券の表記を「大日本帝国政府」に変更して発行。100円・10円・5円・1円・50銭・10銭・5銭・1銭・2厘5毛の額面がある。このうち2厘5毛券は発行数・現存数が極めて少ない。
      ろ号券
      戊号券のうち「ろ」で始まる記号があるもの。仏領インドシナで使う目的の軍票であったが、殆ど使用されなかった。そのため比較的高価なプレミアが付いている。
      そのほか
      南支派遣軍が発行した「軍用證券」があるほか[17]、現地軍が勝手に印刷もしくは敵の謀略券ともいわれる「丙号異式軍票」(額面100円で、全体が赤色をメインとしたデザインとなっているもの)もある[17]。また現地で印刷されたものの未発行に終わった日本武尊図案の1000円軍票に香港を奪還したイギリス軍が「HONG KONG GOVERNMENT」と加刷して1香港ドル軍票としたものも存在する[18]
  • 大東亜戦争軍票(各国単位)
    • 1941年以後に日本軍が占領したアジア太平洋地域の各地で発行された軍票。各占領地域で発行されたため、軍票の通貨単位も異なり、多くのシリーズがあり、種類が多い。
      は号券
      蘭領インドシナで発行。単位はグルテン。
      に号券
      英領マラヤで発行。単位は海峡ドル。
      ほ号券
      米領フィリピンで発行。単位はペソ。
      へ号券
      英領ビルマで発行。単位はルピー。
      と号券
      英領太平洋地域で発行。単位はポンド。

関連法律

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「軍票による支払等の許可の申請手続に関する省令」により、日本人が日本から外国に対して軍票による支払いを行う場合には、財務大臣の許可を受ける必要がある。この許可申請は、財務省の所定の係に直接又は郵送で書類を提出することで行うことができる。[19]また、平成22年までは、e-Govを通じて運用されていた財務省電子申請システムを通じてオンラインでも受け付けていたが[20]、オンライン申請された実績は無い。この省令が言うところの軍票とはGHQと在日米軍が日本国内で使用した軍票の扱いに関してであり、大日本帝国が発行した軍票のことではない。本来の趣旨はアメリカ軍から軍票による支払いを受けた日本企業がアメリカに対して支払いを行う場合の手続きを定めている。当時はドルの持ち出し制限があったため、その関連事項でもある。 現在、アメリカ軍は軍票を発行していないので、今後も申請されることは無いと思われる。

  • 明治37年2月
    • 軍用手票製造及び使用法(大蔵大臣)
  • 大正3年9月3日
    • 臨時派遣部隊軍資金支弁順序(大蔵省)軍票発行
  • 大正4年5月9日
    • 青島守備軍「公報」第16号軍告示軍票及び圓銀壱圓均照左開行市換算
  • 大正7年8月7日
    • シベリア及び北満へ出兵の場合に於ける軍用手票取扱順序大蔵大臣より陸軍大臣へ
    • 秘乙第1812号大正7年7月18日 金兌換軍票、金貨及び外国貨幣取扱手続
  • 昭和13年9月22日
    • 軍用手票発行要領(閣議決定)
    • 支那事変派遣経費支弁軍用手票取扱手続(大蔵大臣達)
    • 支那事変派遣部隊経費支弁軍用手票取扱手続の実行方に関する件(理財局長依命通牒)
  • 昭和16年12月15日
    • 邦銀に於ける軍票対法幣取引開始に関する件
  • 昭和16年12月16日
    • 軍票対旧法幣の正金建値相場実施(売25円)
  • 昭和17年3月9日
    • 軍票公定建値を儲備銀行建てに改訂(売20円)
  • 昭和17年5月28日
    • 上海に於ける銭莊の軍票取引許可制に関する件
    • 上海に於ける銭莊の軍票取引取締規定
  • 昭和17年5月31日
    • 邦銀に於ける軍票対新法幣売買に関する件
  • 昭和17年6月1日
    • 銭莊の軍票引き取り許可制実施
  • 昭和17年6月19日
    • 軍票対新法幣の交換相場及び手数料に関する件
  • 昭和17年6月20日
    • 奥地軍票対儲備券交換取扱変更に関する通牒
  • 昭和17年6月22日
    • 軍票対儲備券の正金建値を18円1本に改定
    • 奥地に於ける軍票対儲備券の両面交換実施
  • 昭和17年6月24日
    • 南京に於ける軍票対旧法幣片交換廃止に関する件通牒
  • 昭和17年7月14日
    • 蘇州、常州、無錫に於ける軍票対旧法幣片交換廃止に関する件通牒
  • 昭和20年3月19日
    • 紙幣、軍票、銀行券の製造確保緊急対策に関する件
  • 昭和20年9月16日
    • 日本帝国大蔵省声明

軍票問題

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フィリピンの5ペソ軍票に押された日本政府に償還を求める団体のスタンプ

日本軍が発行した軍票は、敗戦により紙切れと化した[21][22]。大陸や南方、台湾などから引き上げてきた民間人や復員兵のなかには軍票や軍票建ての預金しかもたない者もおり、これら困窮する者たちに対し日本政府はなすすべのない状態が続いた[23][24][25]。発行数量が多すぎたため、一部ではインフレで実質的価値が消滅したのもあった。特にインフレが激しかった地域では、タバコの巻紙に軍票が使われたといわれている。軍票に対する日本政府の支払い義務は、連合国がサンフランシスコ講和条約で請求権を放棄したため、消滅したとされている。

しかし、戦後もフィリピン香港で日本軍が発行した軍票に強制的に両替させられた住民による、戦後補償を求める訴えがある。香港では中国中に流通していた日本軍の軍票が一挙に流入させられたため、前述のように強制的に両替させられた住民は大きな経済的損害を受けた。実際に、日本の裁判所で日本政府に対する損失補填を求める民事訴訟が起こされたが、1999年6月17日東京地方裁判所は、当時の国際法で戦争被害に対する個人の損害を補償しないという原則と、日本の国内法に軍票を交換する法律が存在しないことを理由に請求を棄却した。

またフィリピン方面で日本軍が発行した軍票のうち、現存するものの中には日本に補償を求めるスタンプを押したものが存在する。これは軍票所持者から信託を受けた団体が受領書を交付し、団体ではスタンプを押して管理するというものであった[26]。しかし、現在では元の所有者に返され、多くの紙幣収集家の手元に納まっている。

軍票を描いた切手

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オランダ郵政当局が1985年5月15日に発行した「第二次世界大戦終結40周年」記念切手4種を発行した。

4種のうち3種には、ナチスドイツによるオランダ占領下における苦境や、ユダヤ人弾圧などの戦争犯罪が描かれていたが、最高額面の70セント切手には、蘭領インドシナにおける日本占領が描かれている。その中にはオランダ人が日本の皇居に向けてお辞儀させられているものと、鉄道建設に従事させられている様子の間に、5セント軍票が描かれていた。この切手に対し、オランダ郵政当局は「歴史的事実を描いただけ」との姿勢であった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 西郷隆盛率いる薩軍が使用した。そのため政府から補償されず没収された。

出典

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  1. ^ 岩尾真宏、山口博敬「政府紙幣浮上の怪――自民内に構想」『朝日新聞』2009年2月3日付朝刊、第13版、第7面。
  2. ^ 広辞苑第6版「軍票」の説明
  3. ^ a b 岩武照彦、「日本軍票の貨幣史的考察」『アジア研究』 1980年 27巻 1号 p.61-82, doi:10.11479/asianstudies.27.1_61, NAID 130004689372
  4. ^ 石原幸一郎編纂「日本紙幣収集事典」、原点社、2005年、294頁
  5. ^ 石原幸一郎、前掲書、295頁
  6. ^ 石原幸一郎、前掲書、226頁
  7. ^ 小林英夫「日本軍政下のアジア」、岩波書店、1993年、P155,156
  8. ^ 外務省公開文書 リール番号A'0115 コマ番号211 SCAPIN-8,21
  9. ^ 昭和20年大蔵省令第79号 聯合國占領軍の發行する「ビー」號圓表示補助通貨の件
  10. ^ 有賀長尾「日露陸戦国際法論」(明治44年、東京偕行社)P.771
  11. ^ 「金融大辞典」(昭和9年、日本評論社)P.656「軍用貨幣」
  12. ^ 「金融大辞典」(昭和9年、日本評論社)P.657「軍用貨幣」
  13. ^ 大蔵省理財局「軍用手票ニ関スル参考書」(昭和16年1月)P.122、この箇所は「昭和財政史・Ⅳ」P.334において公表されている。
  14. ^ 大蔵省理財局「軍用手票ニ関スル参考書」(昭和16年1月)P.134、この箇所は「昭和財政史・Ⅳ」P.334において公表されている。
  15. ^ 石原幸一郎、前掲書、294頁
  16. ^ 石原幸一郎、前掲書、368-371頁
  17. ^ a b 石原幸一郎、前掲書、361頁
  18. ^ 石原幸一郎、前掲書、362頁
  19. ^ 電子政府の総合窓口e-Gov 行政手続き案内[1][2][3][4]
  20. ^ 財務省電子申請システムの運用停止[5][6]PDF-P.14
  21. ^ 昭和20年9月6日附、ハロルド・フェア中佐発「法貨ニ關スル件」。アジア歴史資料センター[7]終戦事務情報:終戦関係書類其の二【レファレンスコードA15060454200】1945年
  22. ^ 「一、日本政府ハ本州、北海道、四國、九州及ビ附近水域ニ於テ左記事項ヲ法律・命令乃至ソノ他ノ規程トシテ卽時實施スベシ...c.日本政府、陸海軍ノ發行セル一切ノ軍票及ビ占領地通貨ハ無効無價値ニシテ、斯ル通貨ノ授受ハ一切ノ取引ニ於テ禁止ス。二、日本政府ハ右事項ノ勵行實施ノ確保ニ必要ナル罰則ヲ制定セントシツツアルコトニ就キ、關係當局者ノ注意ヲ惹クベシ。尚當司令部ノ是認ヲ受ケルタメ、課セラルベキ最大及ビ最小ノ罰則ノ一覧表ヲ提出スベシ。」
  23. ^ 帝国議会第89回貴族院「衆議院議員選挙法中改正法律案特別委員会」伊江朝助(昭和20年12月13日)発言者番号51[]
  24. ^ 帝国議会第89回衆議院本会議「引揚民援護に關する質問主意書」伊禮肇(昭和20年12月11日)
  25. ^ 政府答弁については帝国議会第89回衆議院予算委員会澁澤敬三(昭和20年12月12日)
  26. ^ 石原幸一郎、前掲書、402頁

参考文献

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  • 石原幸一郎編纂「日本紙幣収集事典」、原点社、2005年

関連項目

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外部リンク

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