コンテンツにスキップ

「蔡撙」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m リンク修正
編集の要約なし
 
4行目: 4行目:
南朝宋の左光禄大夫・開府儀同三司の蔡興宗の子として生まれた。若くして兄の蔡寅とともに名を知られた。国子生に選ばれ、高第に挙げられ、司徒法曹行参軍となった。
南朝宋の左光禄大夫・開府儀同三司の蔡興宗の子として生まれた。若くして兄の蔡寅とともに名を知られた。国子生に選ばれ、高第に挙げられ、司徒法曹行参軍となった。


[[斉 (南朝)|南朝斉]]の左衛将軍の[[王倹]]が部下を選抜すると、蔡撙はその下で主簿となった。建安王文学や司徒主簿・左西属を歴任した。西昌侯[[明帝 (��朝斉)|蕭鸞]]が鎮軍将軍となると、蔡撙は召し出されて従事中郎となった。中書侍郎・中軍長史・給事黄門侍郎を歴任した。母が死去すると、墓のそばに廬を結んで服喪した。南朝斉末の多難な時期に服喪を終えると、そのまま墓所に住み込んだ。太子中庶子や太尉長史に任じられたが、いずれも就任しなかった。
[[斉 (南朝)|斉]]の左衛将軍の[[王倹]]が部下を選抜すると、蔡撙はその下で主簿となった。建安王文学や司徒主簿・左西属を歴任した。西昌侯[[明帝 (南朝斉)|蕭鸞]]が鎮軍将軍となると、蔡撙は召し出されて従事中郎となった。中書侍郎・中軍長史・給事黄門侍郎を歴任。母が死去すると、墓のそばに廬を結んで服喪した。斉末の多難な時期に服喪を終えると、そのまま墓所に住み込んだ。太子中庶子や太尉長史に任じられたが、いずれも就任しなかった。


南朝梁が建国されると、[[侍中]]となり、[[臨海郡]][[太守]]として出向した。事件に連座して太子中庶子に左遷された。再び侍中となり、[[呉興郡]]太守に任じられた。
梁が建国されると、[[侍中]]となり、[[臨海郡]][[太守]]として出向した。事件に連座して太子中庶子に左遷された。再び侍中となり、[[呉興郡]]太守に任じられた。


[[510年]]([[天監]]9年)、[[宣城郡]]の官吏の呉承伯が[[ゾロアスター教|祅教]]の信徒を集めて宣城郡を攻撃し、太守の朱僧勇を殺害した。呉承伯は転進して旁県を殲滅し、山を越えて呉興郡に侵攻し、2万人を集めて、郡城を襲撃した。呉興郡には鍛錬された兵がいなかったので、官吏や民衆たちは恐慌を起こして逃げ散り、蔡撙にも避難を勧めた。蔡撙は堅く守って動かず、勇敢な人物を募って郡を固めた。蔡撙は人々に命じて抗戦させ、郡城の城門に戦って搦め手で反乱軍を破ると、戦場で呉承伯を斬り、残党をすべて鎮圧した。信武将軍の号を加えられた。
[[]]([[]])、[[宣城郡]]の官吏の呉承伯が[[ゾロアスター教|祅教]]の信徒を集めて宣城郡を攻撃し、太守の朱僧勇を殺害した。呉承伯は転進して旁県を殲滅し、山を越えて呉興郡に侵攻し、2万人を集めて、郡城を襲撃した。呉興郡には鍛錬された兵がいなかったので、官吏や民衆たちは恐慌を起こして逃げ散り、蔡撙にも避難を勧めた。蔡撙は堅く守って動かず、勇敢な人物を募って郡を固めた。蔡撙は人々に命じて抗戦させ、郡城の城門に戦って搦め手で反乱軍を破ると、戦場で呉承伯を斬り、残党をすべて鎮圧した。信武将軍の号を加えられた。


蔡撙は度支尚書として[[建康 (都城)|建康]]に召還され、[[中書令]]に転じた。また信武将軍・[[晋陵郡]]太守として出向した。召還されて通直散騎常侍・国子祭酒に任じられた。後に吏部尚書に転じた。再び侍中となり、秘書監を兼ねた。侍中のまま中書令に転じた。[[521年]]([[普通 (梁)|普通]]2年)、宣毅将軍・[[呉郡]]太守として出向した。[[523年]](普通4年)、死去した。享年は57。侍中・金紫光禄大夫・宣恵将軍の位を追贈された。[[諡]]は康子といった。
蔡撙は度支尚書として[[建康 (都城)|建康]]に召還され、[[中書令]]に転じた。また信武将軍・[[晋陵郡]]太守として出向した。召還されて通直散騎常侍・国子祭酒に任じられた。後に吏部尚書に転じた。再び侍中となり、秘書監を兼ねた。侍中のまま中書令に転じた。[[普通 (梁)|普通]]2年)、宣毅将軍・[[呉郡]]太守として出向した。普通4年)、死去した。享年は57。侍中・金紫光禄大夫・宣恵将軍の位を追贈された。[[諡]]は康子といった。


子の蔡彦熙は、中書郎・宣城郡[[内史]]を歴任した。
子の蔡彦熙は、中書郎・宣城郡[[内史]]を歴任した。

2023年6月13日 (火) 05:45時点における最新版

蔡 撙(さい そん、467年 - 523年)は、南朝宋からにかけての官僚は景節。本貫済陽郡考城県

経歴

[編集]

南朝宋の左光禄大夫・開府儀同三司の蔡興宗の子として生まれた。若くして兄の蔡寅とともに名を知られた。国子生に選ばれ、高第に挙げられ、司徒法曹行参軍となった。

の左衛将軍の王倹が部下を選抜すると、蔡撙はその下で主簿となった。建安王文学や司徒主簿・左西属を歴任した。西昌侯蕭鸞が鎮軍将軍となると、蔡撙は召し出されて従事中郎となった。中書侍郎・中軍長史・給事黄門侍郎を歴任。母が死去すると、墓のそばに廬を結んで服喪した。斉末の多難な時期に服喪を終えると、そのまま墓所に住み込んだ。太子中庶子や太尉長史に任じられたが、いずれも就任しなかった。

梁が建国されると、侍中となり、臨海郡太守として出向した。事件に連座して太子中庶子に左遷された。再び侍中となり、呉興郡太守に任じられた。

天監9年(510年)、宣城郡の官吏の呉承伯が祅教の信徒を集めて宣城郡を攻撃し、太守の朱僧勇を殺害した。呉承伯は転進して旁県を殲滅し、山を越えて呉興郡に侵攻し、2万人を集めて、郡城を襲撃した。呉興郡には鍛錬された兵がいなかったので、官吏や民衆たちは恐慌を起こして逃げ散り、蔡撙にも避難を勧めた。蔡撙は堅く守って動かず、勇敢な人物を募って郡を固めた。蔡撙は人々に命じて抗戦させ、郡城の城門に戦って搦め手で反乱軍を破ると、戦場で呉承伯を斬り、残党をすべて鎮圧した。信武将軍の号を加えられた。

蔡撙は度支尚書として建康に召還され、中書令に転じた。また信武将軍・晋陵郡太守として出向した。召還されて通直散騎常侍・国子祭酒に任じられた。後に吏部尚書に転じた。再び侍中となり、秘書監を兼ねた。侍中のまま中書令に転じた。普通2年(521年)、宣毅将軍・呉郡太守として出向した。普通4年(523年)、死去した。享年は57。侍中・金紫光禄大夫・宣恵将軍の位を追贈された。は康子といった。

子の蔡彦熙は、中書郎・宣城郡内史を歴任した。

伝記資料

[編集]