「テムデル (スニト部)」の版間の差分
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『集史』などの記述によると、テムデルはスニト部族の出身で、左翼20番目の千人隊長に任ぜられていたという。しかし、『集史』にはチンギス・カンに仕えた経緯や軍功など、その事蹟についてはほとんど記録されていない<ref>志茂2013,636-637頁</ref>。 |
『集史』などの記述によると、テムデルはスニト部族の出身で、左翼20番目の千人隊長に任ぜられていたという。しかし、『集史』にはチンギス・カンに仕えた経緯や軍功など、その事蹟についてはほとんど記録されていない<ref>志茂2013,636-637頁</ref>。 |
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一方、『元朝秘史』には第2代皇帝[[オゴデイ]]が即位した後に任命された、新たな[[ケシク|ケシクテイ(親衛隊)]]のトルカウト(侍衛)長官としてテムデル(帖木迭児)の名前が挙げられている<ref>村上1976,356頁</ref>。同時期に千人隊長からケシクテイ長官に抜擢された人物には[[カダアン・ダルドルカン]]や[[イェスン・テエ]]らがおり、彼等がケシクテイに選抜されたのはオゴデイの末弟[[トゥルイ]]と縁の深いチンギス・カンの時代のケシクテイを一新するためと考えられている<ref>村岡1996,73-76頁</ref>。 |
一方、『元朝秘史』には第2代皇帝[[オゴデイ]]が即位した後に任命された、新たな[[ケシク|ケシクテイ(親衛隊)]]のトルカウト(侍衛)長官としてテムデル(帖木迭児)の名前が挙げられている<ref>村上1976,356頁</ref>。同時期に千人隊長からケシクテイ長官に抜擢された人物には[[カダアン・ダルドルカン]]や[[イェスン・テエ]]らがおり、彼等がケシクテイに選抜されたのはオゴデイの末弟[[トゥルイ]]と縁の深いチンギス・カンの時代のケシクテイを一新するためと考えられている<ref>村岡1996,73-76頁</ref>。 |
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== 子孫 == |
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『集史』「スニト部族志」によると、テムデルには'''ムバーラク'''という息子がおり、第4代皇帝[[モンケ]]に[[コルチ]]として仕えていた。ムバーラクとは[[アラビア語]]で「吉祥」の意であるが、ムバーラクには軟弱、無気力な所があったためこのような名前がつけられたという。ムバーラクの事蹟も父テムデル同様ほとんど知られていないが、アムカチンとブクダイ・アクタチという子孫がいたことが記録されている<ref |
『集史』「スニト部族志」によると、テムデルには'''ムバーラク'''という息子がおり、第4代皇帝[[モンケ]]に[[コルチ]]として仕えていた。ムバーラクとは[[アラビア語]]で「吉祥」の意であるが、ムバーラクには軟弱、無気力な所があったためこのような名前がつけられたという。ムバーラクの事蹟も父テムデル同様ほとんど知られていないが、アムカチンとブクダイ・アクタチという子孫がいたことが記録されている<ref/>。 |
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テムデルには'''スニタイ・ノヤン'''という息子もおり、こちらは[[フレグの西征]]に随行してイラン方面に移住した。スニタイはフレグの長子[[アバカ]]にも仕え、[[1270年]]に[[チャガタイ・ウルス|チャガタイ家]]の[[バラク]]との間で行われた[[カラ・スゥ平原の戦い]]では全軍を叱咤激励し勝利に貢献した。スニタイの子孫はこれ以降も[[フレグ・ウルス]]の重臣として活躍している<ref>志茂2013,641-643頁</ref>。 |
テムデルには'''スニタイ・ノヤン'''という息子もおり、こちらは[[フレグの西征]]に随行してイラン方面に移住した。スニタイはフレグの長子[[アバカ]]にも仕え、[[1270年]]に[[チャガタイ・ウルス|チャガタイ家]]の[[バラク]]との間で行われた[[カラ・スゥ平原の戦い]]では全軍を叱咤激励し勝利に貢献した。スニタイの子孫はこれ以降も[[フレグ・ウルス]]の重臣として活躍している<ref>志茂2013,641-643頁</ref>。 |
2022年6月7日 (火) 22:03時点における最新版
テムデル・ノヤン(モンゴル語: Temüder,? - ?)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたスニト部出身の千人隊長の一人。大元ウルスのブヤント・カアン(仁宗)、ゲゲーン・カアン(英宗)の治世に活躍したテムデルは同名の別人。
『元朝秘史』などの漢文史料では帖木迭児(tièmùdiéér)、『集史』などのペルシア語史料ではتامودار(tāmūdār)と記される。
概要
[編集]『集史』などの記述によると、テムデルはスニト部族の出身で、左翼20番目の千人隊長に任ぜられていたという。しかし、『集史』にはチンギス・カンに仕えた経緯や軍功など、その事蹟についてはほとんど記録されていない[1]。
一方、『元朝秘史』には第2代皇帝オゴデイが即位した後に任命された、新たなケシクテイ(親衛隊)のトルカウト(侍衛)長官としてテムデル(帖木迭児)の名前が挙げられている[2]。同時期に千人隊長からケシクテイ長官に抜擢された人物にはカダアン・ダルドルカンやイェスン・テエらがおり、彼等がケシクテイに選抜されたのはオゴデイの末弟トゥルイと縁の深いチンギス・カンの時代のケシクテイを一新するためと考えられている[3]。
子孫
[編集]『集史』「スニト部族志」によると、テムデルにはムバーラクという息子がおり、第4代皇帝モンケにコルチとして仕えていた。ムバーラクとはアラビア語で「吉祥」の意であるが、ムバーラクには軟弱、無気力な所があったためこのような名前がつけられたという。ムバーラクの事蹟も父テムデル同様ほとんど知られていないが、アムカチンとブクダイ・アクタチという子孫がいたことが記録されている[1]。
テムデルにはスニタイ・ノヤンという息子もおり、こちらはフレグの西征に随行してイラン方面に移住した。スニタイはフレグの長子アバカにも仕え、1270年にチャガタイ家のバラクとの間で行われたカラ・スゥ平原の戦いでは全軍を叱咤激励し勝利に貢献した。スニタイの子孫はこれ以降もフレグ・ウルスの重臣として活躍している[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
- 村岡倫「トルイ=ウルスとモンゴリアの遊牧諸��団」『龍谷史壇』 第105号、1996年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年