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「日独関係」の版間の差分

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==参考ページ==
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* [[板東俘虜収容所]]
* [[板東俘虜収容所]]
* [[エルヴィン・フォン・ベルツ]]
* [[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]]
* [[フリードリヒ・ハック]]
* [[カール・ハウスホーファー]]

* [[お雇い外国人]]


==参考文献==
==参考文献==

2006年8月23日 (水) 01:29時点における版

日独関係17世紀以降、紆余曲折を経て現在のようなものとなっている。

19世紀

19世紀末から20世紀初頭

第一次世界大戦

第一次世界大戦において、日本は米仏露側に参戦し、ドイツの植民地の青島をめぐる日独戦争を展開する。青島没落後、ドイツ兵は捕虜として日本に連行され、十数か所の収容所に1919年まで捕虜生活をおくった。そのもっとも知られているのが板東俘虜収容所である。

戦間期

1936年防共協定以降、日本ドイツは同盟関係にあったと言うことができる。 しかし、その実情は常にすれ違いの様相を呈し、ついに実効的なものとはなりえな かった。

両国の同盟関係がはっきりと形を表すのは防共協定と、1940年の日独伊三国軍事���盟(これは正式名称は「日独伊三国同盟」であるが、日本Wikipediaは間違っていて「日独伊三国軍事同盟」になっている。「日独伊三国軍事同盟」は実際1942年1月の同盟)である。 同盟関係は共通の利害に基づく強固なものという訳ではなく、むしろ利害が衝突しな いことのみを旨とする消極的なものであった。 だが、両国とも同盟国共通の利益を尊重するという大局的な視座に立つこともなけれ ば、相手国の利害を顧慮することもなかった。 その結果、実際に戦争に突入してからも同盟はなんらの実際的な協調行動を引き起こ すには至らなかった。

このように両国の同盟関係が実効的なものとならなかった理由は、両国の連合が常に バックボーンを欠いていたことにある。 戦前戦中を通して、日独両国のイデオロギー上の共通性、経済的な運命共同体といっ たキャッチフレーズがしばしば打ち出されたが、このような空文句をなら べてみたところで、バックボーンの不在からくる両者の不調和をおおいかくすことは できなかった。 ゆえに、両国の同盟関係は最初から最後まで「支柱なき連合」と表現されるようなも のでしかなかったのである。


第二次世界大戦

戦後

参考ページ

参考文献

  • 堀内健介監修『日本外交史 21 日独伊同盟・日ソ中立条約』鹿島研究所出版会、1971年。
  • 三宅正樹「日独関係の歴史的展開とソ連」『日本の社会文化史<7>』講談社、1974年。
  • Sommer, Theo:Deutschland und Japan zwischen den Mächten 1935-1940. Tübingen 1962 (JCB Mohr).
  • Christian W. Spang, Rolf-Harald Wippich (eds.): Japanese-German Relations, 1895-1945. War, Diplomacy and Public Opinion. London/New York 2006 (Routledge).