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「宣帝 (陳)」の版間の差分

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'''宣帝'''(せんてい、[[528年]]-[[582年]]、在位[[568年]]-582年)は、[[陳]]の第四代[[皇帝]]。第二代皇帝・[[文帝]]の弟。
'''宣帝'''(せんてい、[[528年]]-[[582年]]、在位[[568年]]-582年)は、[[陳]]の第四代[[皇帝]]。第二代皇帝・[[文帝]]の弟。


兄・文帝の死後、その遺言により甥の[[廃帝伯宗]]の補佐を命じられていたが、568年にこれを廃して殺害し、自らが皇帝として即位したのである。
兄・文帝の死後、その遺言により甥の[[廃帝伯宗]]の補佐を命じられていたが、568年にこれを廃して殺害し、自らが皇帝として即位したのである。


即位後は、流民対策や租税の減免などの内政に力を注いだ。対外的にも、南下してきた[[北周]]の軍勢を破り、さらに[[573年]]には[[北斉]]に攻め込んで江北九郡を奪取した。しかし、北周の猛攻によって後に江北領を奪われ、失意のうちに死去したという。
即位後は、流民対策や租税の減免などの内政に力を注いだ。対外的にも、南下してきた[[北周]]の軍勢を破り、さらに[[573年]]には[[北斉]]に攻め込んで江北九郡を奪取した。しかし、北周の猛攻によって後に江北領を奪われ、失意のうちに死去したという。

2004年9月23日 (木) 04:31時点における版

宣帝(せんてい、528年582年、在位568年-582年)は、の第四代皇帝。第二代皇帝・文帝の弟。

兄・文帝の死後、その遺言により甥の廃帝伯宗の補佐を命じられていたが、568年にこれを廃して殺害し、自らが皇帝として即位したのである。

即位後は、流民対策や租税の減免などの内政に力を注いだ。対外的にも、南下してきた北周の軍勢を破り、さらに573年には北斉に攻め込んで江北九郡を奪取した。しかし、北周の猛攻によって後に江北領を奪われ、失意のうちに死去したという。