稗田阿礼
稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。『古事記』の編纂者の1人として知られる[1]。暗誦する役割をもつ人たちの集団とする説もある[2][3]。また、男性か女性かについても議論がある[4]。
稗田 阿礼 | |
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生誕 | 不祥 |
死没 | 不詳 |
職業 | 舎人 |
活動期間 | 7世紀後半から8世紀初頭 |
雇用者 | 天武天皇 |
著名な実績 | 『古事記』編纂 |
影響を受けたもの | 『帝紀』『旧辞』 |
概要
編集稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんど何もわかっていない。同時代の『日本書紀』にも、この時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ。
『斎部氏家牒』では、宇治土公の庶流であり、天鈿女命の末葉であるとされる。
異説
編集通常「舎人」といえば男性だが、江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。平田篤胤は『古史徴開題記』の中で「阿礼は実に天宇受売命之裔にて、女舎人なると所思たり。」と述べている[5]。民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。その根拠として、稗田氏は天鈿女命を始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で(ただし、『政事要略』には「右少史猿女副雄」という男性の官人が見える[6])、「アレ」は巫女の呼称である、ということ、がある。例として孝霊天皇の妃の一人に意富夜麻登久邇阿礼比売命がいる。
ただし、『造伊勢二所太神宮宝基本記』には「伊己呂比命男、大貫連大阿礼命」と記されており、「阿礼」はそのまま巫女のみを表す言葉ではない[6]。
『新撰姓氏録』に「阿礼首」という氏族が存在することから、稗田阿礼の名前は、阿礼首、あるいは大伯皇女や高田新家、忍海大国のように、地名を由来とする説も存在する[6]。
また『古事記』には、『日本書紀』と比べ、女神や巫女的存在の神を重要なものとして登場させている箇所があることも、女性説を裏付けるとの意見もある。(例として、伊邪那岐命の禊祓の際、男性である命の身につけているものの中に、婦人がつける「裳」が入れられていること。古事記オリジナルの神に伊豆能売(厳媛)という巫女的役割を持つ神がいて、しかもそのエピソードが神出現の場面(禍津日神)に登場していること、また天照大神と須佐之男命の誓いの際に、『古事記』では『日本書紀』とは反対に、女神の出現によって勝のしるしとすること。)
梅原猛は、『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている[7]。
実在性
編集稗田阿礼自身その出自や事績に関しては不明な点がほとんどである。
実在性に関して、氏が「稗田」で名が「阿禮」[注釈 1]であるのならば、7世紀後半を生きた時代の舎人として、その姓(カバネ)が何であったのかが最初の問題となる。以下の点が指摘される[8]。
- 670年に施行された庚午年籍や、その20年後の庚寅年籍に記載がある畿内の人々は、極僅かな割合の奴婢を除き、全ての者が「姓付きの氏」を持っていること。しかし稗田阿礼は姓が不記載であり、その非実在性の問題へとつながる。姓の不記載は阿礼が非実在か、姓を序文の作者が知らなかったということになる。また序文から、氏と姓の違いが曖昧になった後世のものであると見ることができる。
- 「稗田阿礼」と「太朝臣安万侶」とが現実に『古事記』の編纂で接触していたのであれば、安万侶が阿礼の姓を知らないことはまずありえないこと。また自らは序文のおわりに「正五位上勳五等 太朝臣安萬侶」と書いていることからも不自然である[注釈 2]。
- 阿礼に如何なる学問の素養があって、それがどのような環境で鍛えられたのかが不明であること。「姓稗田、名阿礼」と言う書き方は漢文での名前表記のやり方であるから構わないという見解もあるが、姓のある日本においてこうした書き方はそぐわない。
- 日本の重要文献の編纂関係者で、このような氏名表示をしている例は他にない。
関係旧跡など
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “「時に舎人あり…」。偉才・稗田阿礼ゆかりの地へ(記紀ルート03)|歩く・なら<奈良の歩き方新提案!拠点滞在探求型ウォークルート>”. www.pref.nara.jp. 奈良県. 2025年1月16日閲覧。
- ^ “Vol.39 :『古事記』を読む(その2)”. 一般財団法人 教育調査研究所. 2025年1月16日閲覧。
- ^ “「日本語の起源」には「中国語のリミックス」があった…日本文化の確立を促した「最大の事件」(松岡 正剛)”. 現代新書. 2025年1月16日閲覧。
- ^ “『古事記』の稗田阿礼をめぐる論争︱昭和30年代の『國學院雑誌』︱”. 國學院大學. 2025年1月16日閲覧。
- ^ 西郷信綱『古事記注釈 第一巻』平凡社、1975年、51頁。
- ^ a b c 中野謙一「稗田阿礼は何をしたのか : 修史事業における『古事記』の位置づけ」『愛知淑徳大学論集. 文学部・文学研究科篇』第37号、愛知淑徳大学文学部、2012年3月、1-12頁、CRID 1050001202566405248、hdl:10638/5085、ISSN 1349-5496、NAID 120005038644。
- ^ 梅原猛『記紀覚書--稗田阿礼=藤原不比等の可能性-上-』岩波書店、1980年5月、50-61頁。
- ^ 宝賀寿男、「稗田阿禮の実在性と古事記序文」『古樹紀之房間』、2015年。