尾去沢鉱山

日本の秋田県鹿角市にあった鉱山

尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)とは、秋田県鹿角市にあった鉱山である。が採掘された。708年和銅元年)に銅山が発見されたとの伝説が残されており、1978年昭和53年)に閉山した。跡地はテーマパーク史跡 尾去沢鉱山として開業している。

尾去沢鉱山
所在地
尾去沢鉱山の位置(秋田県内)
尾去沢鉱山
尾去沢鉱山
所在地秋田県鹿角市尾去沢
日本の旗 日本
座標北緯40度11分00秒 東経140度45分00秒 / 北緯40.1833度 東経140.75度 / 40.1833; 140.75座標: 北緯40度11分00秒 東経140度45分00秒 / 北緯40.1833度 東経140.75度 / 40.1833; 140.75
生産
産出物
生産量銅30万t、金4.4t、銀155t(1889年以降・推定総計)
歴史
開山708年?
閉山1978年
所有者
企業岩崎家
三菱合資会社
三菱鉱業株式会社
⇒太平鉱業株式会社
⇒三菱金属鉱業株式会社

⇒尾去沢鉱山株式会社
取得時期1889年(岩崎家取得)
1893年(三菱取得)
プロジェクト:地球科学Portal:地球科学
内部の様子

概要

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尾去沢鉱山は、鉱物が溶け込んだ熱水が岩盤の割れ目に染み入り、地表近くで冷え固まった鉱脈型鉱床の典型[1]である。新生代新第三紀中新世グリーンタフ、珪質頁岩に、火山岩である安山岩流紋岩デイサイトが貫入している。

鉱脈は500条あり、平均走行延長300m、傾斜延長300m、脈幅0.7m、銅の品位は2.4%であった[2][3]坑道を用いる坑内掘りによって採掘が進められ、南北3km、東西2kmの山中に、明治以降だけで700km、江戸以前を含めれば800kmの坑道[4]が、シュリンケージ採鉱法により鉱脈に沿って縦横に掘られた。銅のほか、金、亜鉛が産出された。1889年(明治22年)に岩崎家に経営が移り三菱財閥が開発を行うようになってから閉山までの産出量は、銅30万t、金4.4t、銀155tと推定されている[5]

1978年(昭和53年)に閉山したが、跡地には選鉱場、シックナー(thickener、濁水から固体を凝集沈殿させる非濾過型の分離装置)、大煙突等が残されている。これらの近代鉱山施設の遺構は土木学会選奨土木遺産[6]や、近代化産業遺産[7]に認定されている。また、一部は、坑内や鉱山施設の見学や砂金取り体験のできるテーマパーク史跡 尾去沢鉱山となっている。2007年には日本の地質百選に選定された。

略史

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708年(和銅元年)に銅山が発見され、産金が東大寺の大仏や、中尊寺で用いられたとの伝説が残る[8]。1598年(慶長3年)に南部藩北十左衛門白根金山を発見し[9]、後に民謡『南部牛追唄』で「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と歌われる金山の一つとして開発が行われた[10]。金が枯渇してきた1695年元禄8年)には銅鉱が発見され、別子銅山阿仁銅山とならび、日本の主力銅山の一つとなる[11]

1889年明治22年)に岩崎家1893年(明治26年)に三菱合資会社の経営することとなり、近代化が図られた。1894年(明治27年)には坑内に電話が敷設され、明治29年(1896年)には水力発電所の建設により住宅を含む全山に電気が通った[12][13]。日本の近代化、戦後復興の礎となった尾去沢鉱山だが、不採算と銅鉱石の枯渇から、1966年(昭和41年)に精錬が中止され、1978年(昭和53年)に閉山した[12]

尾去沢銅山事件

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江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。1869年(明治元年)、戊辰戦争により窮迫した南部藩から採掘権は村井に移された。版籍奉還の後、南部藩から村井は改めて銅山の稼方としての指令を受けている。その際に藩からは12万両余の経営費を委託されていた。しかし村井は銅山の経営もはかどらず、藩からの委託金である12万両を各商法に振りまいたが失敗し、その穴埋めに高利貸を使ってさらに借金を増やした上に、外国取引の書類にもかかわっていたので、おびただしい損害を生んだ。そこで盛岡藩から出された『家産傾ケ』の書に村井はやむなく調印をした。諸藩の外債返済の処理を行っていた大蔵省は、1871年(明治4年)にこの証文を元に村井の分の借金である三万千四百両の返済を求めたが、村井は政府の通達に応じず抗議した。やむを得ず政府は村井の家財一切を差し押さえることとした[14]

その頃、大蔵省出仕の川村選は『岡田平蔵尾去沢鉱山引受願之儀ニ付見込取調伺』と目安書した書類を作成し、諸務課・判理局・丞・輔に提出した。内容は「五万五千三百五十六両を村井から上納すれば一件が落着する」ということと、「村井にはそれだけの財も能力もない」こと、「よって尾去沢鉱山を返上させて、その付属品を全て買い上げ、希望の物を見立てて同山の事業を継承させたい」とあった。加えて「大阪の商人岡田平蔵という者が志望の理由を申し出たので、身元を調べてみたら、鉱業には随分巧者であり、殊に造幣寮の御用も勤め、身代も相応の者であるから、願の通り許可してみてはどうか」とも書かれており、「還納金については年賦にして岡田と村井の打ち合わせの上、秋田県へ納めさせる」とあった。さらに「この目安書が決議されたならば、村井の家財封印を解き、大阪府・岩手県・秋田県へその旨を達して欲しい」との意見があった。その上で「鉱業の主務は工部省なので、そちらへの照会もされたし」とあった。当時大蔵大輔だった井上馨はその書類を決裁した。井上は同じ大蔵省出仕の渋沢栄一らと連名で、工部省出仕の山尾庸三少輔に一連のことを連絡した。こうして村井から銅山は返上となったが、代わりに差し押さえられていた家財全てが封印を解除され、村井の手に戻った[14]

井上が行ったのは政府としての正当な業務であり、家財全てを差し押さえられていた村井にとっては救済措置でもあった。それに対して村井は、岡田は銅山を所有しているが、それは自分から取り上げられたもので、何も事業を持たない自分が岡田と共に借金とされた金額を年賦で払うのには納得がいかないと言い出した。具体的な案を提示せずに、借金は何とか返すから銅山を返せと繰り返すだけの村井を、大蔵省は相手にしなかった。そこで村井は、この一件を司法省に訴え出た。

司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及したが、結論として井上は村井の所有権騒動に巻き込まれただけであり、井上の身は潔白であった。留守政府時代に信頼する井上に政府の舵取りを任せていた西郷隆盛や、留学から帰国した木戸孝允らが手を尽くし、大警視である川路利良らの調査も加えて真相の究明をはかったが、伊藤博文大木喬任、渋沢栄一らが江藤とは意見を別にする司法省員と共に不要な動きをしたために、事の本質が明らかになるまでに長い時間を要した。その間には井上の評判を落とそうとして、尾去沢銅山事件自体が民衆の記憶から薄れないうちに、事実が明らかにされていない時期だというにもかかわらず、新聞にでたらめな記事を載せるという意図的な悪意ある画策もあった[15]

井上は事件の浮上の経緯を知り、冤罪であるのにもかわらず、望まぬ形で連座させられそうになったことを遺憾とし、官吏として政府に残るよりも民間で国を支えることを望んだため、大蔵大輔を辞職した。井上は辞職する際に、上に立つ者の責任として裁判で下された罰金を支払っているが、同じように川村選からの目安書に目を通し、連名で工部省へ取り次いだ渋沢は無罪という判決を下されている[16]

江藤は井上が何の不正も働いていないことを明らかにした。また司法省の中で井上に反感を抱いている者が複数おり、その者達が軽率な手配をしたことで調査が難航したことを詫びた。ただし井上への忠告として江藤は、大蔵省が行った村井の借金額の査定の中で川村選に過失があり、その過失に気付かぬまま差し押さえに入ったのは不当であることと、村井の嘆願を無視して大蔵省が岡田に鉱山経営を許可したことは、巷で流されている風聞の影響もあり、井上と岡田の間に私交関係があるように勘違いされるので、岡田とは決別した方がよいということを伝えた。その事実を知る江藤が井上の潔白を政府内外に広めようとした最中に、明治六年の政変が起こり、江藤も下野することとなった[15][17][18]

木戸孝允の後継者として周囲に認知されていた井上が下野した状況であること、加えて政敵として対峙することが多い江藤が政府を去ったことで、大久保利通はその後すぐに内務省を設立し、内治の要となる職務を結集したその省のトップである内務卿になった。江藤は佐賀の乱で首謀者として担がれることとなり、自らの責任を問うべく自首したが、大久保による暗黒裁判によって死刑になった。このため井上に対する尾去沢鉱山についての真相は世に周知されず、うやむやになり、事実無根の悪評だけが世に流れた[15][17]

江藤を正当な裁判で裁かずに死罪とすることで、大久保は敵対する実力者の数を減らした。続いて大久保の対抗者として政府内で重鎮として居る木戸の足元を崩すには、井上を頼みにすることが大きい木戸から、さらに井上を引き離すことが有効策であった。そのため井上を政界から去らせるだけでなく、民間で財界人として成功し躍進している井上の評価を陥れることで、世情からも追い落とそうとした。尾去沢銅山事件は大蔵省や司法省だけの問題ではなく、政府内での大きな問題となっていた。そこで井上に反感を抱く者達がこの事件を利用し、井上が汚職をしたという嘘をあたかも真実であるかのように政府内外へ広めた。その結果、尾去沢銅山事件において全くの無実である井上は、事実とは正反対の話や真相とはまるで異なる噂を世間で流され、手酷い悪評を被ることとなった[15][19][20][16]

これを尾去沢銅山事件という[15][19][20][16][14][17][18]

これ以降も井上は尾去沢銅山事件の関係で、風評被害に遭い続けている。明治30年初版の『評伝井上馨』という渡辺修二郎が著した本においても、「井上等大蔵省在職中尾去沢銅山を其借用人村井茂兵衛より強奪し以て自ら利する所あり」という事実とは全く異なる記載がなされ、井上の評価を貶めた。渡辺は事件の真相を一切知らず、また調査もしないままに、風聞だけを鵜呑みにした自己主観だけの本を評伝として出版した。こうした出版物や新聞記事の発行により、当時から井上の評判は誤ったままに伝えられ、事実無根であるにもかかわらず「井上は汚職をした」という固定概念が生まれるに至った。ちなみに渡辺が出版した『評伝井上馨』という本では、井上存命中に出されたものであるにもかかわらず、写真資料すら誤りだらけであった。井上馨の写真を掲載しているとされているが、明らかに人相や背格好の違う他人の写真が多数載せられている[21]

鉱滓ダム決壊事故

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1936年(昭和11年)11月20日午前4時頃[22]、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)が経営する尾去沢鉱山で精錬所の硫化泥沈殿貯水池(鉱石から金属を取り出したあとの泥状のカスを貯めておく池)の中沢ダムが決壊して下流の坑夫長屋が埋没し、死者362人を出す大惨事を起こした。ダムは修復が行われたが、その途上の同年12月22日午前4時40分頃にも再度決壊。12人の死者を出した[23][24][25]

1937年(昭和12年)2月12日、仙台鉱山監督局はダム決壊前の数度の漏水を看過し、有効な手立てを行わなかった会社と技術者に事故の責任があるとして、三菱鉱業会社および鉱山の工作係主任を秋田地方検事局に告訴した。秋田地方検事局でも独自の調査が行われていたが、ダム決壊の原因は直前に発生した地震による説と粗悪な材料で作られたダムの構造による説が出され、原因究明を難しいものとした[26]

獅子大権現

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江戸時代から伝わる尾去沢鉱山発見の物語が、『大森親山獅子大権現御伝記』の陸中の国鹿角の伝説に残されている。

1481年(文明13年)、尾去村の奥の大森山から、翼の差し渡し十余尋(約20m)にもなり、口から金色の炎を吹き、牛のほえるような声を立てる大鳥が現れ民百姓を恐れさせた。尾去村の人々がこの大鳥を滅ぼしてくれるよう毎夜天に祈ったところ、ある時、大森山の方で鳥の泣き叫び苦しむ声が聞こえ、これ以降はこの怪鳥が飛んでくることはなかった。不思議に思った村人が声のした方を訪ねると、赤沢川が朱色に染まっており、その元には大蛇の頭、牛の脚を持ち、赤白金銀の毛を生やしたかの怪鳥が傷つき死んでいた。腹を裂いてみると、金銀銅鉱色の石だけが充満していた。村長が思うところ、夢に白髪の老人が6度も現れ、新山を開けと告げていたのだが、この山のことであったに違いないと辺りを掘ってみたところ鉱石が発見された。これが尾去沢鉱山の始まりである。

人か神か、だれが怪鳥を倒したのかと訪ねまわったところ、大森山のふもとに獅子の頭のような大石が地中より出ており血がついていたことから、この神石であったものであろうと考え、大森山は獅子の体、連なる山々は獅子の手足であるとして、社を建立し、怪鳥を埋め奉り、大森山獅子大権現とした[27][28][29]

閉山後の事件

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鉱山は1978年に閉山したが、その後も鉱山跡からは鉛などの重金属を含んだ排水が出続けている。米代川の水は、下流の大館市などでは水道水として利用されているため、一定の処理を施してからへ放水することとなっていた。しかしながら、処理を怠った排水を川へ垂れ流し、さらに書類を改竄して処理を行っているように見せかけ、補助金を受け取っていたことが明らかになった[30]。このような行為が少なくとも2005年から2013年まで行われたとされている[31][32]

脚注

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  1. ^ 史跡 尾去沢鉱山の豆知識”. 史跡 尾去沢鉱山. 2008年6月16日閲覧。
  2. ^ 『新版地学事典』1996年、平凡社、175ページ、ISBN 4-582-11506-3
  3. ^ 『角川日本地名大辞典 5秋田県』1978年、角川書店、177ページ、ISBN 4-04-001050-7 では470条
  4. ^ 秋田県「バーチャル未来科学館」尾去沢鉱山の歴史と仕事:上級 Archived 2006年2月2日, at the Wayback Machine.2008年6月16日閲覧
  5. ^ 秋田県「バーチャル未来科学館」尾去沢鉱山の歴史と仕事:中級 Archived 2009年9月4日, at the Wayback Machine.2008年6月16日閲覧
  6. ^ 2005年認定。
  7. ^ 2007年11月認定。近代化産業遺産群3「東北鉱山」の構成遺産として。
  8. ^ 尾去沢鉱山の歴史 | 「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」 史跡 尾去沢鉱山”. www.osarizawa.jp. 2022年7月28日閲覧。
  9. ^ 明治以前の尾去沢鉱山の歴史 | 「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」 史跡 尾去沢鉱山”. www.osarizawa.jp. 2022年7月28日閲覧。
  10. ^ 空間通信 マインランド 尾去沢”. レジャーパークの最新動向2002. 空間通信 編集室 (2002年). 2008年6月18日閲覧。
  11. ^ 前掲『角川日本地名大辞典』178ページ
  12. ^ a b 明治以降の尾去沢鉱山の歴史 | 「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」 史跡 尾去沢鉱山”. www.osarizawa.jp. 2022年7月28日閲覧。
  13. ^ 秋田県「バーチャル未来科学館」尾去沢鉱山の歴史と仕事:初級 Archived 2007年8月14日, at the Wayback Machine.2008年6月16日閲覧。ここでは、電話開通は1893年とされる。
  14. ^ a b c 『大蔵省文書』国立古文書館。 
  15. ^ a b c d e 『木戸孝允文書』宮内庁書陵部。 
  16. ^ a b c 『世外井上公伝』原書房。 
  17. ^ a b c 『江藤南白』原書房。 
  18. ^ a b 『三条家文書』三条家から国立国会図書館へ譲渡。 
  19. ^ a b 『松菊木戸公伝』明治書院。 
  20. ^ a b 『吉富家文書』吉富家、山口県文書館。 
  21. ^ 『評伝井上馨』同文館。 
  22. ^ 鉱毒水沈殿用ダムが決壊、三百戸埋没『東京日日新聞』昭和11年11月21日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p199 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  23. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “尾去沢鉱山とは”. コトバンク. 2022年7月28日閲覧。
  24. ^ シリーズ 時代を語る:[奈良東一郎]ダム決壊の音が耳に”. 秋田魁新報電子版. 2022年7月28日閲覧。
  25. ^ 修築中のダムまた決壊、八十一人が遭難『東京日日新聞』昭和11年12月23日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p203)
  26. ^ 工事責任の鑑定で学者の意見に対立『東京朝日新聞』昭和12年4月22日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p219)
  27. ^ GLNからこんにちは 尾去沢大森親山獅子大権現御伝記”. 2008年6月16日閲覧。
  28. ^ 鹿角市 鹿角のむかしっこ 光る怪鳥 Archived 2008年5月16日, at the Wayback Machine.2008年6月16日閲覧
  29. ^ 史跡尾去沢鉱山 尾去沢鉱山にまつわる「光る怪鳥」伝説”. 2008年6月16日閲覧。
  30. ^ 尾去沢鉱山小真木坑廃水処理所の不適正事案について
  31. ^ “鉱山で汚水排出、データも改ざん 秋田・排水処理会社”. https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H8D_S5A400C1000000/ 
  32. ^ エコマネジメント株式会社による鉱山保安法違反等及び補助金の不正受給に対する措置

参考文献

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  • 全国地質調査業協会連合会・地質情報整備・活用機構編 『日本列島ジオサイト地質百選』 オーム社、2007年。ISBN 978-4-274-20460-9

関連項目

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外部リンク

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