土井利厚
土井 利厚(どい としあつ)は、江戸時代後期の大名、老中。下総古河藩主。土井家宗家10代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦9年(1759年) |
死没 | 文政5年6月24日(1822年8月10日) |
官位 | 従四位下、侍従、大炊頭 |
幕府 | 江戸幕府老中 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 下総古河藩主 |
氏族 | 桜井松平家→土井氏 |
父母 |
父:松平忠名、母:庄司氏 養父:土井利見 |
兄弟 | 加藤明堯、忠告、利厚、脇坂安弘正室、水野勝起正室、五百姫 |
妻 | 板倉勝清の養女(板倉勝暁の娘) |
子 |
鶴太郎、利行、利広、永井直興婚約者、富 養子:利位 |
摂津尼崎藩主・松平忠名の四男。母は側室の庄司氏。正室は板倉勝清の養女(板倉勝暁の娘)[1]。子に土井利行(次男)、土井利広(三男)、娘(永井直興婚約者)、富(細川立之正室)。従四位下・侍従・大炊頭。
生涯
編集古河藩主土井利見の養嗣子となり、はじめ利和(としかず)と名乗る。利見が相続後1か月足らずで没した後襲封し、その後45年の長きにわたり古河藩主となった。この間、寺社奉行、京都所司代、老中などの重職を歴任し、1万石の加増も得た。土井家から老中が出たのは利房以来のことであった。
対ロシア外交
編集1804年(文化元年)9月、ロシア使節のニコライ・レザノフが長崎に来航し、以前にアダム・ラクスマンが受け取っていた入港許可書を提出して、通商を求める皇帝アレクサンドル1世の親書を受領するように、幕府に求めた[2][3]。
この時に幕府の内部で議論が行われ、土井利厚は儒学者の林述斎に意見を求めた。林は、ロシアとの通商は、鎖国の方針に反するものであり拒絶するべきだ、と進言する一方、入港許可書は与えているのだから、レザノフを丁重に扱いつつ、日本の鎖国体制を説明し理解を求めるしかない、とも回答した[2]。
しかし土井はこの進言を聞き入れず「レザノフを手荒く扱い、腹を立てさせれば、二度と日本に来る気にはならないだろう。もしもロシアがそれを理由にして攻め込んで来たとしても、日本の武士がロシア軍に遅れを取るはずもないので、大丈夫だ」と主張し、それがレザノフへの対応方針として決定された[2]。
この結果、レザノフは半年もの間、長崎で交渉を続けたあげくに、通商を拒絶されたのみならず、長崎で囚人同様の扱いを受けた。そのため、ロシア側は態度を硬化させ、ロシア軍による攻撃につながった[2](文化露寇(フヴォストフ事件))。
略歴
編集系譜
編集父母
正室
子女
養子
脚注
編集- ^ 宮内庁書陵部所蔵「華族系譜23」p.57
- ^ a b c d “文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について”. 歴史の読み物 (2017年10月19日). 2025年1月6日閲覧。
- ^ “レザノフとは? 意味や使い方”. コトバンク. DIGITALIO. 2025年1月6日閲覧。 “イルクーツクの富裕な毛皮商シェリホフの女婿となり,1799年露米会社の設立に参加し,同社の総支配人となった。北太平洋とアラスカにおける自社の事業を発展させるためには,日本との交易が絶対に必要だと考え,1804年(文化1)ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えて長崎に来航した。”
- ^ 寛政譜などの板倉家系図には勝清の実子と記載されている。
関連項目
編集- ニコライ・レザノフ - 老中在職中に交渉を担当した。