価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。
法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。
※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
裁判のメリット・デメリット
人間集団の中での揉め事を解決する方法には、現在のような裁判制度がない時代からさまざまなものがあった。紛争解決の方法はじつは事柄の性質に即して多種多様なのであり、法的解決というのはそれらの中のたったひとつの選択肢でしかない。
にもかかわらず、この訴訟という方法のみを唯一正しいとみて、これをありとあらゆる領域の問題解決に拡張させる考え方、これこそ、法化のもつ病理的側面なのである。
紛争解決のために裁判に訴えることには、利点もあればもちろん欠点もある。まず利点をみてみよう。古代中世と、国家による裁判制度がなかった時代には、揉め事があると仇討ちや自力救済など私闘しか解決手段がなかった。力のない者は泣き寝入りするしかなかったのである。
しかし、裁判の登場によって、弱者でも諦めることなく自らの権利を国のお墨付きによって実現できるようになった。
また民事訴訟では、損害を与えた者に対して損害賠償を請求する。金銭による解決は「目には目を」よりは平和的だろう。つまり損害賠償は、血で血を洗う復讐や私的制裁を止めさせるための人間の智恵であるともいえるのである。
しかし、訴訟による解決には負の側面もある。まず訴訟を起こすとなれば金がかかるうえに時間をとられ、心身の消耗も大きい。そのうえ訴訟は、元々の紛争の火にさらに油を注ぐ性質をもっている。
なぜなら解決方法が「勝つか負けるか」の二択になるため相手に全面的に非があることを主張しなければならず、その主張に説得力をもたせるために相手の性格や私生活、さらには過去の行状までをも暴露する必要が出てくるからである。
こうして裁判は、当事者同士の対決をさらに激化させ、解決後もその関係を修復不可能にしてしまう。
また、紛争のすべてが法廷にもちこまれることが当たり前の社会になれば、人々は日常的に訴えられることを覚悟しながら行動しなければならない。
アメリカ人は法曹ではない一般の人々でも日常的に、「We will sue you.(訴えるぞ)」と言うらしい。だから「スー族」というあだ名がつけられたこともあった。それほど訴訟が当たり前の社会なのだ。
しかしこんな風に、ある日突然法廷に引っ張り出され、自分に関わることを根掘り葉掘り暴露されることをつねに覚悟しながら生活することに、あなたは耐えられるだろうか?