種痘所
種痘所(しゅとうしょ)とは、日本の江戸時代末期において天然痘の予防及び治療を目的に設立された医療機関。特に1858年に伊東玄朴らによって開設された「お玉ヶ池種痘所」(東京大学医学部発祥の地、前身)が有名である。
歴史
[編集]日本初の種痘所は、1849年(嘉永2年)7月20日に長崎出島のオランダ商館医師オットー・モーニッケによって長崎に開設された。
佐賀藩藩医の伊東玄朴の進言を採用し、佐賀藩は痘苗の輸入をオランダ商館に依頼していた。長崎で自身の子供に種痘を行った藩医の楢林宗建により、同年8月に長崎から佐賀藩領へ痘苗がもたらされた。佐賀藩では種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。さらに10月に佐賀藩から江戸の佐賀藩邸に送られたことにより、関東、東北にも広まった。
一方これとは別に、長崎の唐通詞頴川四郎八により同年9月に痘苗は京都へ送られ、日野鼎哉により10月16日「除痘館」が開設され、種痘が開始された。この噂を聞きつけた緒方洪庵が京都へ赴き交渉の末に入手。日野、笠原良策、緒方らにより11月7日に大阪にも「除痘館」が作られた。1860年(万延元年)、適塾の南へ移転。1850年(嘉永3年)、洪庵の郷里の備中国(岡山県)足守藩より要請があり、「足守除痘館」を開設。
福井藩(福井県)出身の町医者であった笠原良策は、弘化3年に藩に対し痘苗入手の請願書を出したが、不採用となっていた。1848年(嘉永元年)12月に再度請願書を出し、藩主の松平春嶽はこれを採れて幕府に誓願した。老中阿部正弘は長崎奉行大屋明啓にこれを伝達。長崎奉行からオランダ商館に要望が伝達された。あとは牛痘が届くだけとなっていた。モーニッケは嘉永元年の来日赴任の際に牛痘を持ち込むがこれは失敗し、前出のように翌年再度バタヴィアから持ち込まれこれは成功した。笠原は京都の日野の「除痘館」で種痘活動ののち、同年11月下旬、接種した子供とその親を引き連れ、雪深い栃ノ木峠を越えて故郷の越前国福井へ痘苗を持ち帰った。笠原は福井城下自宅の隣家にて、帰国した当日から種痘を開始した。また、接種と鑑定方法を熟知することを条件に越前国内の府中・鯖江・大野・敦賀、隣国加賀(石川県)の大聖寺・金沢・富山などへとそれぞれの医者に技術を伝えて分苗していった。福井藩は1851年(嘉永4年)10月、70名を超える藩医・町医・スタッフを組織した「除痘館」を開設した。
江戸では1849年(嘉永2年)3月に、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし江戸では急速な開化ムードもあり、1858年(安政5年)に蘭方解禁となった。また、伊東玄朴・戸塚静海らの蘭方医が奥医師(幕府の医官)に登用されたことを契機とし、安政4年8月に大槻俊斎の家に伊東や戸塚ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、会議が開かれた。箕作阮甫はプチャ―チン事件などでも知り合いであった、幕閣の開明派であった川路聖謨に働きかけ、川路を通して幕閣に働きかけ、また種痘所の計画用地として川路の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとした。
安政5年正月、老中堀田正睦から許可が下り、伊東・戸塚・箕作・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された。この種痘所は11月に火災で類焼するが、伊東玄朴宅と大槻俊斎宅を仮所として種痘は継続され、翌年9月に別な場所に再建された。この再建の際、三宅艮斎���依頼を受けた濱口梧陵が建築資金として3百両、機材代として四百両という大金を寄贈している。こののち幕府直轄とされ「西洋医学所」(東京大学医学部の前身)と改名し、種痘は同施設の一部門となる。医学所初代頭取は大槻俊斎。大槻の死後、伊東玄朴らが緒方洪庵を推薦し、幕府の強い要請に応えて、緒方が大阪から上京して頭取に就任。文久3年2月に医学所と改称。同年6月の緒方の死後、7月から松本良順が頭取となった。慶応4年、新政府軍の江戸開城および幕府が機能停止する。頭取の松本良順が旧幕府軍と共に奥州に去ったため、林洞海が頭取となって種痘は続けられた。
上野国(群馬県)舘林では長澤理玄が江戸に上り1849年(嘉永2年)に桑田立斎の弟子となり、1851年(嘉永4年)に種痘法を持ち帰ったが、藩主秋元志朝の命を受けてなお、皆は種痘を受けることを恐れた。理玄は普及を急き焦り、親の承諾も得ずに通りすがりの子供に施術するなどして益々反対派を増やしてしまった。翌年には藩飛び地の羽州漆山(山形県)へ赴き、同地でも種痘施術を行った。元々秋元家は同地から舘林に移されたばかりであり、山形では医師であった理玄の父の名声が高かったことがあり、種痘は普及した。また舘林では家老の岡谷瑳磨介が率先して自身の子供4人に受けさせた。この後、種痘に反対していた重臣の子供らは次々と天然痘に罹ったが、岡谷の子供らは大丈夫であった。以降、他の藩士や領民も種痘を受けるようになった。のち藩は岡谷の献策を入れ、理玄を中心とした大規模な医療施設を設けた。そこで種痘は継続され、さらに舘林藩は藩内の幼児全てに種痘を受けさせることを藩命により義務化した。
古西義麿氏は『緒形洪庵と大坂の除痘館』において小説(フィクション)を引用して館林では、種痘が受け入れられず、山形において普及して後に館林で受け入れられたとする。古西氏も同書で述べているようにこれは、過ちであり館林の郷土史・史料はすべて館林で普及し後に山形で普及したと記述されている。3部屋の長屋形式の種痘所が大規模な医療施設といえるか疑問である。
こうして全国に広まっていくと同時に、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。1858年6月5日(安政5年4月24日)、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し、牛痘種痘は免許制とされた。
参考文献
[編集]- 深瀬泰旦 『天然痘根絶史』 恩文閣出版、2002年9月 ISBN 4-7842-1116-0
- 古西義麿 『緒形洪庵と大坂の除痘館』 東方出版、2002年12月 ISBN 4-88591-820-0
- 小堀直人「館林藩医 長澤理玄考察ー館林牛痘会所ー」2017年 8月
関連項目
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