野辺地城
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野辺地城 (青森県) | |
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別名 | 金鶏城、野辺地代官所 |
城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 不明 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 南部氏、小軽米氏、日戸氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし、野辺地代官所の標柱あり[1] |
指定文化財 | 史跡等未指定[2] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 | 県№401011(野辺地代官所跡)[3] |
位置 | 北緯40度51分53.0秒 東経141度07分29.0秒 / 北緯40.864722度 東経141.124722度座標: 北緯40度51分53.0秒 東経141度07分29.0秒 / 北緯40.864722度 東経141.124722度 |
地図 |
野辺地城(のへじじょう)は、青森県上北郡野辺地町字野辺地にあった日���の城。別名金鶏城(きんけいじょう)。城跡は「野辺地代官所跡」として野辺地川右岸沿いの同町中央公民館敷地内に位置し、「城内」の字名が残る[1][4]。
概要
[編集]野辺地城は中世の平山城で、天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「野辺地 山城 七戸 将監 持分」とあり、北方および西方に備えた要害屋敷として、慶長3年(1598年)の『城持支配帳』には「野辺地館 弐千石 藤の丸石井伊賀」とある。その後、小軽米氏、日戸氏が相次いで城代となり、享保20年(1735年)に、盛岡藩内に通制が敷かれた時、代官2名がおかれ、野辺地代官所となった(元々の建築年代は明らかではない[1])。
明治元年(1866年)の戊辰戦争の一局地戦として、弘前藩と盛岡藩が交戦した野辺地戦争では、盛岡藩兵側の拠点となった。
脚注
[編集]- ^ a b c 「史跡・文化財-野辺地代官所跡-」野辺地町公式HP
- ^ 「史跡・文化財」野辺地町公式HP
- ^ 「青森県遺跡地図」青森県公式HP
- ^ (地図閲覧サービス) 国土地理院
参考資料
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。