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王揖唐

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王揖唐
写真週報』1940年
プロフィール
出生: 1877年10月17日
光緒3年9月11日)
死去: 1948年民国37年)9月10日
中華民国の旗 中華民国 北平市
出身地: 清の旗 安徽省廬州府合肥県
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 王揖唐
簡体字 王揖唐
拼音 Wáng Yītáng
ラテン字 Wang I-t'ang
和名表記: おう ゆうとう
発音転記: ワン・イータン
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王 揖唐(おう ゆうとう)は、清末民初の政治家・軍人。安徽派の政治家として安福倶楽部を指導する。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。旧名は志洋慎吾什公。後に、名を、字を一堂と改めたが、号の揖唐で知られる。筆名は逸唐

事績

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清末民初の活動

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1904年光緒30年)、甲辰科進士となったが、自ら望んで軍事を学ぶことを清朝に願い出て、同年9月に日本へ留学した。東京振武学校を経て、金沢砲兵第9連隊で実習に臨んだ。しかし軍人生活に適応できず[注 1]法政大学での学習に転じたとされる[1][注 2]1907年(光緒33年)に帰国した。以後、兵部主事、東三省総督署軍事参議、吉林陸軍第1協統統領、吉林督練処参議を歴任した。1909年宣統元年)から、ロシアとアメリカへ外遊し、軍事等の視察を行った[2][3][4]

中華民国成立後、王揖唐は袁世凱の下で総統府秘書、参議、顧問などをつとめた。また、政党活動にも参加し、民社共和促進会統一党の3党を経て、黎元洪が理事長をつとめる共和党で幹事となった。1913年民国2年)、チベット選出の第1期国会参議院議員となる。5月、共和党、民主党、統一党の3党合併により進歩党が成立すると理事を務めた。王は袁世凱を支持する路線をとり、約法会議議員として中華民国約法制定に参与する[3][4][5]

1914年(民国3年)5月26日に参政院参政、10月23日に江皖籌賑事宜督弁、1915年(民国4年)8月19日に吉林省巡按使などを歴任した[6]。また、フランスやドイツへ外遊して陸軍組織の視察も行い、袁世凱が皇帝即位を目論んだ際には『国華報』という新聞を創刊してこれを支援する言論を張った[3][4][5]。これにより、1915年12月21日に一等男に特封されている。翌1916年(民国5年)4月に段祺瑞が内閣を組織すると、王揖唐は内務部総長兼督弁京都市政事宜に任命された[6]

安福倶楽部

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善後会議議員時代
Who's Who in China 3rd ed. (1925)

袁世凱死後の1916年(民国5年)6月30日、王揖唐は内務部総長などを辞職する[6]。以後、安徽派に属して国会を中心に活動するようになった。

翌年11月に段祺瑞臨時参議院を組織すると、王揖唐が議長に就任した。1918年(民国7年)3月8日、王揖唐は徐樹錚とともに安福倶楽部を設立し、安徽派のための様々な政治活動に従事した。同年8月2日、王揖唐は衆議院議長に就任して、以後、「安福国会」と称される国会運営を主導した。9月には大総統に徐世昌を選出している。このほか、南方政府との和平交渉では首席代表を務め、私立民国大学や中華大学の校長にもなった[3][4][7]

しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争直隷派に安徽派が敗北すると、同年8月3日に安福倶楽部と安福国会は徐世昌の命令により解散させられた。王揖唐も指名手配されたため、日本へ亡命して、しばらくは著述活動に専念した[3][4][8]

1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)を経て段祺瑞が臨時執政として復権する。王揖唐もこれに参加し、11月には安徽省省長兼軍務善後事宜督弁に就任した[6]。翌1925年(民国14年)2月、善後会議議員も兼任している[3][4][8]。しかし、王は安徽省政の掌握に失敗し、同年4月24日に安徽軍務善後事宜督弁を、6月18日に安徽省長をそれぞれ辞職した[6]

中国国民党北伐に際しては、王揖唐は北方各派に与してこれに抵抗しようとした。しかし1928年(民国17年)の北伐完了と共に王揖唐は指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込み、再び著述活動に励んだ[8]

1931年(民国20年)から国民政府の政治家として復帰し、東北政務委員会委員に任命された。1932年(民国21年)1月23日に国難会議会員、翌1933年(民国22年)5月4日に行政院政務整理委員会委員、6月14日に華北戦区救済委員会委員を歴任し、王克敏らと共に対日交渉の前線に立っている。1935年(民国24年)12月11日には冀察政務委員会委員に任命された[6]。また、天津匯業銀行総理も務めた[3][4][8]

親日政府での活動

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1936年(民国25年)5月、王揖唐は親日の蒙古軍政府に参加し、実業署署長に任命された。日中戦争支那事変抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)12月14日に、王克敏北京中華民国臨時政府を組織する。王揖唐もこれに参加し、臨時政府常務委員(議政委員会常務委員)兼振済部総長に特任された[9]。翌1938年(民国27年)9月18日、振済部と行政部が廃止され[10]、内政部と財政部が創設されると、王揖唐が内政部総長に特任されている[11]。同年10月22日、振務委員会委員長に特派され、これを兼任する[12][注 3]1939年(民国28年)9月からは、汪兆銘(汪精衛)を支持してその政権への参加交渉に従事した[3][4][13]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、王揖唐は考試院長[14]華北政務委員会委員[15][注 4]中央政治委員会当然委員[16][注 5]となった。同年6月6日、汪兆銘らとの政治的対立の末に辞任した王克敏に替わり、王揖唐が華北政務委員会委員長兼常務委員兼内務総署督弁に特派された[17]1943年(民国32年)1月、最高国防会議議員、全国経済委員会副委員長、新国民促進委員会委員(後に常務委員)となった[3][13][18]。しかし同年2月、王揖唐は華北政務委員会委員長の地位を退く。以後、王克敏らが復権したため、華北での王揖唐の権力は衰えた。

日本が敗北した後の1945年(民国35年)12月5日に王揖唐は北平の病院で逮捕される[注 6]。当初、王揖唐は重病とみなされて裁判にかけられなかったが、後にその仮病が発覚するなどして1946年(民国35年)9月に裁判に付されることになった[19]。河北高等法院で死刑が言い渡された後、南京首都高等法院で当該判決が確定する。1948年(民国37年)9月10日[注 7]漢奸の罪により北平の監獄で銃殺刑に処せられた。享年72(満70歳)[3][13][20]

人物像

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曹汝霖によると、王揖唐の政治態度は、「自ら名士派と称し、自分は政治経済の素人であるから、日本側の処理に一任し、自分ではやらない。もし難題があっても争執しない」というものだったという。これに対して曹は、日本側の見解を変えられないとしても、自己の意見は言うべきだ、という旨で諌めたが、王揖唐は却って「叔魯(王克敏)は事毎に〔注:日本側と〕言い争ったが、結局何を勝ち得たか、何らの結果も得られなかったではないか」等と反論し、耳を貸さなかった。それ以来、曹は王揖唐への進言を一切しなくなったと言う[21]

なお、北京政府では曹汝霖と王揖唐は共に安徽派の幹部[注 8]であり、直隷派だった王克敏の方が曹にとって政敵に近かった。

注釈

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  1. ^ 劉国銘主編(2005)、230頁は、陸軍士官学校で学んだ、としているが、誤りと思われる。
  2. ^ 法政大学中国研究会編(1949)、10頁に卒業生として記載されているものの、卒業年や学科は「不明」とされている。
  3. ^ 1939年3月9日、王揖唐は振務委員会委員長の兼務を解除され、河北省長を辞職した高凌霨が後任の委員長となった。臨時政府令、令字第334-336号、民国28年3月9日(『政府公報』第64号、民国28年3月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)。
  4. ^ 考試院長や華北政務委員会委員に就任する人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  5. ^ 当然委員には、五院院長と華北政務委員会委員長が就任する。なお、中央政治会議を改組した中央政治委員会の人事は、発令前の同月24日に決定・公表された(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、185-186頁)。
  6. ^ 余ほか(2006)、1482頁、1614頁による。蕭(2005)、730頁は、1946年夏に逮捕としている。
  7. ^ 徐主編(2007)、153頁は「1946年夏処刑」としているが、誤りである。
  8. ^ 厳密に言えば、曹汝霖は「新交通系」の指導者だが、段祺瑞らの安徽派に近かったことは否定できない。

出典

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  1. ^ 法政大学中国研究会編(1949)、10頁。
  2. ^ 蕭(2005)、727頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 徐主編(2007)、153頁。
  4. ^ a b c d e f g h 劉国銘主編(2005)、230頁。
  5. ^ a b 蕭(2005)、727-728頁。
  6. ^ a b c d e f 中華民国政府官職資料庫「姓名:王揖唐」
  7. ^ 蕭(2005)、728-729頁。
  8. ^ a b c d 蕭(2005)、729-730頁。
  9. ^ 『同盟旬報』1巻18号通号18号、昭和12年12月中旬号、同盟通信社、38頁。
  10. ^ 臨時政府令、題字第108号及び題字109号、民国27年9月18日(『政府公報』第36号、民国27年9月26日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
  11. ^ 臨時政府令、令字第263号、民国27年9月18日(『政府公報』第36号、民国27年9月26日、臨時政府行政委員会公報処、3頁)。
  12. ^ 臨時政府令、令字第289号、民国27年10月22日(『政府公報』第41号、民国27年10月31日、臨時政府行政委員会情報処公報室、1頁)。
  13. ^ a b c 蕭(2005)、730頁。
  14. ^ 『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、184頁。
  15. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  16. ^ 『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、186頁。
  17. ^ 国民政府令、民国29年6月6日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、華北政務委員会政務庁情報局、国府3頁)。
  18. ^ 劉国銘主編(2005)、230-231頁。
  19. ^ 上海『新聞報』1946年9月8日(余ほか(2006)、1482頁)。
  20. ^ 劉国銘主編(2005)、231頁。
  21. ^ 曹著、曹汝霖回想録刊行会編訳(1967)、284頁。

著作

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  • 『広徳寿重光集』上海愛儷園行館、1920年
  • 『世界最新之憲法』1923年
  • 『逸塘詩存』1941年(李元暉が編纂)
  • 『今傳是樓詩話』
  • 『近邊建制概略』
  • 『上海租界問題』

参考文献

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  • 蕭棟梁「王揖唐」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 曹汝霖著, 曹汝霖回想録刊行会編訳『一生之回憶』鹿島研究所出版会、1967年。 
  • 法政大学中国研究会編『中華民国法政大学留学卒業生人名鑑 法政大学創立七十周年記念』法政大学中国研究会、1949年。 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
朱啓鈐
内務総長
1916年4月 - 6月
次代
許世英
先代
馬聯甲(安徽督理)
安徽督弁
1924年11月 - 1925年4月
次代
鄭士琦
  中華民国臨時政府
先代
(創設)
内政総長
1938年9月 - 1940年3月
次代
(廃止)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
考試院長
1940年3月 - 1942年3月
次代
江亢虎
先代
王克敏
華北政務委員会委員長
1940年6月 - 1943年2月
次代
朱深
先代
王克敏
華北政務委員会
内務総署督弁
1940年6月 - 1943年2月
次代
斉燮元