東亜会
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前身は、第二次世界大戦後に東京で愚連隊などを形成していた町井久之が1957年に結成した東声会(とうせいかい)である。同会は1960年代に入ると神奈川、千葉、埼玉、群馬など関東地方全域、さらに他地方にまで活動領域を拡げ、1600人以上の勢力を有するに到った。抗争を伴う急激な拡大により関東で孤立状態に陥ったが、そこから脱するために町井は、神戸から全国に展開しつつあった三代目山口組の組長・田岡一雄の舎弟となる道を選んだ。山口組との結縁に関東の諸組織は反発したが、右翼の大物・児玉誉士夫が取り持ったこともあって、1963年2月に神戸の料亭で行われた兄弟盃には阿部重作、稲川角二、関根 賢ら関東の実力者の臨席を得、町井と東声会は立場を確実なものにした。しかし、間もなく開始された「第一次頂上作戦」の影響により、1966年9月に解散した。
山口組との関係
山口組とは田岡―町井の兄弟盃以来、東亜友愛事業組合理事長・沖田守弘が三代目山口組で「幹部扱い」されるなど友好関係を保ち、親戚団体の一つとなっている。2005年に六代目山口組が発足すると組長・司 忍を後見人に迎え、関係を さらに強化した。
最高幹部
- 会長・金海芳雄
脚註
- ^ その後、東亜友愛事業組合(とうあゆうあいじぎょうくみあい)として再建され、東亜友愛(とうあゆうあい)を経て、東亜会に改称したとする説があるが誤りである。