台湾
台湾(Táiwān)は、東アジアに在る台湾島とその周辺諸島から構成される、人口2300万の地域である。
台湾にはフォルモサ (Formosa) という別名が存在する。これはポルトガル語で台湾を指す言葉で、「麗しの島」という意味を持つ。伝承では初めて台湾を見たポルトガル人船員がその美しさに感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだ事に始まると言う。
歴史
詳細は台湾の歴史を参照
前近代の台湾
台湾の原住民は、フィリピン・インドネシア方面からの移民とされる。彼らは十数とも二十とも言われる多数の民族に分かれ、台湾の各地に居住していた。
台湾の存在が中国の文献に記載されるのは隋唐時代からであるが、当初は小琉球と称されていた。そのため大琉球とよばれていた沖縄と混同される事も多かった。しかし後に台湾と呼称されるようになる。台湾とは原住民の言語の「タイユアン」(来訪者の意)という言葉の音訳とされる。
台湾が本格的に開発されるようになったのは明代になってからである。当時の台湾は倭寇の根拠地の一つとなり、やがて中国人・日本人が恒久的に居住するに至った。
台湾の戦略的重要性に気づいたのは、漢民族だけでなく、オランダやスペインもそれぞれ台南と基隆に要塞を築き、貿易・海防の拠点とした。日本への鉄砲やサビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
日本もそのころ台湾に対して領土的な興味を持っていた。豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた。(高山国とは当時台湾に存在すると考えられた国名。実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)また1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官村山等安がいずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣した。
明末になると、明朝は清朝に侵略され、鄭成功は侵略に抵抗して奮戦するが、力及ばず、ついに軍勢を率いて台湾に逃げる。彼はオランダを追放して台南を根拠地とし、台湾開発に乗り出した。彼自身の目標、即ち清朝撲滅はついに果たせず、彼の政権も60年後には清朝に滅ぼされてしまうが、鄭成功は今なお台湾人の精神的支柱(開発始祖、「ピルグリム・ファーザー」)として高い地位を占めている。なお鄭成功は清との戦いに際したびたび徳川幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府がわに判断され支援は実現しなかった。しかしこの戦いの顛末は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国姓爺合戦として戯曲化された。
清代においては、対岸の福建省からの移民が相次ぐが、気性の荒い海賊、食いはぐれた貧窮民が多く、マラリア・デング熱などの熱帯病、原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったことから、内乱が相次いだ。
清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が居なかった。そのため漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じた。
清国は台湾を永らく重要視してこなかった。特に台湾原住民については「化外の民」として放置されてきた。しかし、1874年に日本軍による台湾出兵(牡丹社事件)が起こってから清国は台湾の戦略的な重要性に気付いた。 台湾は福建省の一部として統治され、さらに台湾省が設立されることになる。清末になって欧米列強によって台南も開港され、鉄道も施設された。(基隆=台北間)
日本統治下の台湾
詳細は日本統治時代 (台湾)を参照
戦後の台湾
戦後、日本の代わりに蒋介石率いる中華民国政府がやってくるが、それまで台湾にいた本省人と、政権中枢を握る新来の外省人との対立から1947年2月28日、本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。その後も蒋介石は恐怖政治を敷き、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑し、予め台湾人の抵抗意識を奪い、その後国共内戦で敗れた兵隊を引き連れて、台湾に移住してくる。中国国民党は政治経済教育マスコミなどを独占。日本はサンフランシスコ講和条約、日華平和条約で台湾の領有権を放棄したものの、同条約では台湾の中華民国への返還(割譲)が明記されていないことから、現在、台湾は中華民国によって占領されているとの解釈も存在する。
圧迫された本省人はなおも政治活動を展開していたが、戒厳令がしかれ、知識人は投獄・暗殺される時代が続いた。その間、活動家は日本やアメリカに逃れることになる。陳総統は6年間投獄されていたし、陳夫人はテロによって足の自由を奪われた。日本へ移民した親日独立派活動家として有名なのは金美齢、台湾400年史を現わした史明がいる。
一方国民党内部に入り込んで、内からの改革を目指そうとした一派も存在し、李前総統はその代表格である。蒋介石が死ぬと息子の経国が跡をついだが、彼が急死すると、副総統であった李は政権を掌握し、国民党に忠実を装い、徐々に政治の本省人化を進めていく。
一方、対外的には、「台湾は中華人民共和国の不可分の領土である」と主張する中華人民共和国政府が国際社会で認められてきたことに伴い、台湾は、日本などの世界各国との外交関係を失った(国連における「国府追放・北京招請」のアルバニア案可決)。さらに1979年にはアメリカとの外交関係も失った。その一方で、台湾は反共の砦としての地位をアメリカに認めてもらい、また経済的な実利を得ることで生存していく道を選択する。
過去の行き過ぎた中国化教育の結果として、今後台湾では独立への勢いが加速すると思われる。一方、自信と武力を増しつつある中国大陸も、台湾独立を阻止する政策を変える理由は見当たらない。台湾をスケープゴートにすることによって、中国統一が保たれるからであり、このような中国政府の意思は国内の各自治区に対する態度と同様で一貫している(独立運動の絶えない新疆・チベットでも中国政府の意図は変わらない)。またアメリカも、中国への配慮から台湾独立には賛成を示していない(ただし、台湾で民主的に政治が行われていることについては賛成している)。
このことからすると、政治的利益よりも経済的利益を重んじる台湾人は独立を明言するよりも、実質的な独立を強化する方向を選ぶだろう。おそらく、対岸の福建を巻き込んだ経済圏を自立させ、中国政府から経済的に自立する方向に進むと思われるが、中国大陸に深く食い込むことは、逆に中国政府に支配されることでもあり、独立派にとって楽観はできない状況にある。
2004年総統選で民進党が僅差ながら選出されたため、台湾人のナショナリズムは着実に根付いていると言えるだろう。民進党のアジェンダによれば、2008年北京五輪の年に憲法改正し、独立してしまうという。そうすれば面子や国際政治上、中国は武力行使できないとの予測からである。しかし中国ナショナリズムもかなり高揚しており、また国民党の反対も根強いことから、そのような「過激な」動きは難しいとの見方が主である。
政治
長らく続いた蒋介石親子政権が終わりを迎え、副総統であった李登輝が政権を掌握すると、彼は台湾の民主化を推し進める。
1987年、国民政府の台湾上陸以来40年に渡って施行されていた戒厳令が解除され、言論の自由、結社の自由、言語の自由が保障され(それまでは公共の場では国語しか使用が許されなかった)、終任議員(=終身資格の国会議員)が解雇された。
一連の民主化政策は、最終的に総統民選に結実し、1996年、中国史上初めて国民による直接投票によって李氏は再び総統(=国家元首)に選ばれた。
民主化の結果として、自治自決、台湾独立の民意が高まり、2000年の総統選挙においては、台湾独立を目標に掲げる陳水扁(元台北市長・後に民主進歩党党首も兼務)が当選した。また李登輝らが中心となり国の正式名称を中華民国から台湾へ変更する運動、台湾正名運動も起こりデモも行われるなど、中国人ではなく台湾人としてのアイデンティティを持とうとする動きも活発化した。
しかし、一方では台湾独立に反対する中国国民党や対岸中国との平和統一を訴える親民党の勢力も強く、政局運営は困難である。
2004年3月の総統選挙結果は陳水扁氏(民主進歩党)が再選を果たした。
軍事
中国大陸が、台湾における中華民国の主権を認めておらず対立しているため、台湾では徴兵制がしかれ準戦時体制にある。そして正規軍約30万人・予備役約350万人という、人口2000万人の国としては大規模な軍隊を有する。
詳しくは中華民国軍を参照
行政区分
行政区分については中華民国の行政区分を参照の事。
最大の都市は北部盆地に位置する台北であり、中華民国の首都機能を果たす。一方、台湾省政府(中華民国の台湾島を名目上管轄する地方自治体)は、台北ではなく台湾島中部の中興新村におかれている。南部には第二の工業都市高雄と第四の古都台南があり、中部は第三の都市台中、東部では花蓮と台東が代表的な都市である。
地理
日本の琉球諸島の西方海上に位置し、面積は九州程度の島である台湾島と、周辺諸島(澎湖諸島・蘭嶼島など)から構成される。西端の金門島は中国本土から数kmの所にあり、南端のガランピからはバタン海峡を隔ててフィリピンに到達する。
島の中央を玉山(日本名:新高山)を最高峰とする山脈が通り、西部は平野、東部は山地とに大別される。
気候
亜熱帯性モンスーン気候であるが、北部は夏季を除けば比較的気温が低く、しのぎやすい。南部は回帰線の南側であり、冬季以外は30度を超えることが多い。台風の襲来も多いが、夏季には「西北雨」と呼ばれる猛烈な夕立も多い。
交通
鉄道・道路・航路ともに発達しており、日帰りで一周することも可能である。
鉄道は国営の台湾鉄道が台湾を一周しており、特急自強号、準特急莒光号急行復興号、快速列車に相当する平快列車、そして普通車が各都市を繋いでいる。また電車と呼ばれる通勤電車が各駅で大都市近郊を走っている。
台北には捷運と呼ばれる地下鉄や新交通システムがネットワークを作っており、高雄も建設中である。
台北と高雄を結ぶ西部幹線では、日本の新幹線システムを導入した高速鉄道が建設中である。(新幹線の初の海外受注である)
高速道路には基隆・台北と高雄を結ぶ中山高速公路と、台北付近でそれを補完する第二高速公路の二本が存在し、数多くのバス会社が高速バスを走らせている。中には二列シート・バスガール・個人TV・按摩椅子つきという豪華な車両も存在する。
都市部もバスが発達しているが、車両が古かったり、バス停が危険だったりと、利用者は必ずしも多くはない。タクシーや自家用車の利用率が高いが、運転マナーが無に等しいので事故が多い。
航空機は主要都市を結んだフリークエンシー・サービスを提供している。割引チケットを使えば鉄道やバスと遜色ないため、人気は高いが事故も多い。中華航空は事故多発航空会社として有名である。ちなみに向田邦子が死亡したのは台湾での航空事故であった。
経済
戦前、日本の食糧補給基地としての役割を与えられていた台湾では、その食料を保管・加工する軽工業が芽生えていた。光復後、蒋介石政権はその軽工業を発展させ、重工業化する政策をとる。経済特区や政府主導による経済プロジェクトが全国に展開され、特に日本とのコネクションを利用した日本の下請け的な工業が発達する。
ベトナム戦争の際、アメリカは戦略物資を台湾から調達し、そのため台湾経済は飛躍的に発展し、台湾経済はこの頃より日本からアメリカ指向にシフトする。
台湾はそこで得たドルを電子工業に投資し、やがてIT景気にのって、マザーボードのシェア世界一、外貨準備高世界一というほどの発展を遂げる。
しかし中国大陸やインドの台頭によって、空洞化が進行し、IT産業も失速する中、台湾は次の投資先を求めて模索している段階である(2003年)。政府はバイオを重要視しているが、バイオがITほどの経済規模を見込めるのかどうか、疑う声も強い。
日本経済の下部組織として発達してきた台湾経済は、日本経済とコンパチブルな面が強い。即ち技術力、工業生産力を利用し、世界市場で優位に立てる製品を開発提供することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。
しかし日本と異なる面も多い。それは漢民族の伝統、米国の影響によるものと考えられるが、代表的なものは起業指向であろう。台湾では有能な人ほど起業を志し、それが経済に活力と柔軟性を与えている。個人主義的なのであるが、反面、社会道徳の弱さという弱点ももつ。
また華僑ネットワークに支えられた、全世界ネットを駆使した世界戦略も台湾独特の強みである。アメリカや日本で注文をとり、中国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。
民族
国民の95%以上は漢民族、残りは漢民族移住以前から台湾に居住する原住民である。漢民族はさらに17世紀頃に移民してきた本省人と、戦後移民してきた外省人に大別され、本省人は移民元地からさらに福建系、客家系に区別される。原住民は平地に住んで漢民族と同化が進んだ「平埔族」と高地や離れ島に住む「高山族」9民族(日本統治時代は「高砂族」と呼ばれた)に分かれる。
言語
公用語は標準中国語であるが、台湾語が広く使われ、場所によっては客家語、原住民の諸言語も使用される。ビジネスや文化的な影響により英語、日本語の普及率は低くない。また過去の経緯から日本語を話す高齢者も多い。標準中国語(国語)の発音は、基本的には中国大陸で使われる北京語と同じであるが、細かい部分で多少の相違があるほか、文字は簡体字ではなく伝統的な繁体字が使われることが多い。
鉄道や空港の案内は英語、標準中国語、台湾語、客家語の4つで行われ、TV番組でもこれらの諸言語が花盛りである。 空港や大きなデパートでは日本語の案内もなされている。
注:台湾に固有な言語という意味から、台湾語は客家語、原住民諸語をも意味するのではないか、という指摘から、最近では福建系住民の言語を台湾語と呼ばず、代わりにホーロー語(福佬語、河洛語)と呼称するケースが増えてきている。福佬とは福建系住民の出身地である福建南部をさす言葉、河洛とは黄河と洛水、即ち中原地方のことで、福建系住民はそこから南下したとの伝承をもつ。
なお閩は虫・蛇の意味で蔑称的なことから、閩南語の表記は廃れつつある。ポリティカル・コレクトネス、多文化主義を参照。
文字
基本は、表意文字である漢字の繁体字を使用する。中国大陸で使用されている簡体字とは異なる。この他に、何種類かの表音文字が使用される。最近では、日本語のひらがな、カタカナ等が使用される事もある。
文字入力
パソコン等の文字入力方法は、部首入力、音による入力等、数種類の入力法が並立していて、日本語におけるかな漢字変換のように統一されていない。
言語教育
最近になって、台湾語も教育する事が義務付けられたが、中国国民党による戒厳令時代はすべて標準中国語(北京語)のみで教育する事とされていた。このため、高齢者は台湾語のみで北京語が話せない者が居り、その下の世代では両方を解するが、現在の中年の世代以下では北京語のみで台湾語を解しない者が多い。従って、高齢者と若者との間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。また、若者の間では日本語を習う者も増えており、日本語が高齢者と若者との共通言語として位置づけられることもある。この他、英語の教育熱が高く、幼稚園時代から英語のみ使用する施設などに子供を預ける者も多い。アメリカへの留学者も多い。
文化
福建系住民は福建文化に、客家(ハッカ)系は(広東)客家文化に、外省人は出身省それぞれの文化に、原住民はマレー・インドネシア文化に属し、それぞれが別々に存在して混交は少ない。顕著な現象としては、本土で廃れた伝統文化が台湾には色濃く残っていることである。これは漢族のみならず、原住民であるアミ族でも見られる現象で、離れ島としての台湾の文化的位置づけを現しているものといえよう。
福建系の伝統文化には布袋劇(人形劇)や南曲(台湾オペラ)がある。外省系としては、台北にある故宮博物院が有名である。これは元々北京紫禁城にあった中国歴代王朝の財宝を、国民党が台湾に運び込んだもので、中国文明の至宝が集まっているといわれる。
外来文化としては日本の影響が大きい。古くは温泉、演歌、日本酒、おでんから新しくはカラオケ、Jポップ、アニメまである。これら日本文化が好きな若年台湾人を哈日族(元は閩南語で太陽中毒者の意)と呼んでいる。アメリカの影響も強く、独自に英語のファーストネームを持っている人も珍しくない。 宗教としては、仏教・道教が盛んである。仏教は仏光山と慈教の2派が優勢であり、王爺や媽祖信仰が多い。
宗教も文化と同じく、中国本土で廃れた宗教儀式が残存している。特に道教系の祭礼は大掛かりなものが多く、一週間に渡って街を練り歩き、数千万円相当の木造船を焼却する「ショウ祭」も行われている。
また占いや祈祷を行うシャーマン「童乩」も健在である。
葬儀や婚礼も大掛かりであり、特に葬儀のパレードは楽隊まで繰り出して華やかである。
関連項目
外部リンク
- 外務省 台湾の情報
- 台湾独立建国聯盟 (日本語版)
- JOG(145) 台湾の「育ての親」 後藤新平
- 『國民新聞』 台湾関連記事索引
- 中華民国総統府
- 民主進歩党(民進党) 台湾の与党の公式サイト
- 台北駐日経済文化代表處 台湾政府の日本における外交の窓口機関