那須藩
那須藩(なすはん)は、下野国那須郡内(現在の栃木県大田原市福原)に存在した藩。
藩史
那須氏と言えば、平安時代末期の源平合戦の那須与一で有名な名族である。ところが戦国時代も終焉の天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に対して那須資晴は参陣しなかったため、那須氏は改易となった。しかし那須氏の重臣であった大田原資清は主家の断絶を惜しみ、秀吉に陳謝したため、特別な計らいで資晴の子・那須資景に5000石が与えられた。資晴もその後、秀吉から罪を許されて5000石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康に対して人質を差し出すことで東軍に与し、結城秀康と共に上杉景勝の南下に備え、江戸城も守備した功績から、資晴は2000石を与えられ、家康の側近にも任じられた。慶長7年(1602年)にも1000石を加増された。資晴は慶長14年(1609年)に死去し、後を資景が継いだ。資景は父の遺領と併せて1万7000石を領することとなり、大名として諸侯に列し、ここに那須藩を立藩した。資景は大坂の陣や日光祭礼奉行として功績を挙げ、寛永元年(1624年)に子の那須資重に家督を譲って隠居した。だが、資重は寛永19年(1642年)、父に先立って死去。しかも嗣子が無かったため、那須氏の所領の内、1万3000石は幕府に没収となり、資景は5000石だけを領することとなったため、那須藩は廃藩となった。
その後、那須氏の家中では資景の後継ぎをめぐって50人組と20人組が争った結果。50人組が擁する那須資弥(増山正利の弟)が後を継ぐこととなった。資弥は寛文4年(1664年)、1万2000石の大名として諸侯に列することとなったため、再び那須藩を立藩した。ちなみに第4代将軍・徳川家綱の母・おらくは資弥の姪に当たったため、資弥は権勢を振るって天和元年(1681年)、8000石加増の上で鳥山藩への復帰を許され、ここに那須藩は廃藩となった。
歴代藩主
那須(なす)家
外様。1万8000石。
廃藩(はいはん)
那須(なす)家
外様。1万2000石。
- 那須資弥(すけみつ)