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ノート:山口登 (暴力団)

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2007年1月21日 (日) 10:42; 竜造寺和英 (ノート | 投稿記録) による版についての観点発生について

1.POVの観点より中立性が保たれていない。

過去における事件や、会話についてその原典というべき「当事者の」インタビュー、ドキュメントとしての記録について一切の説明がない。出展とされる記事についてまず、中立的な観点より見直しをお勧めしたい。

また、この人物の亡くなった時点から今日に至るまでの、様々な関係者の発言内容と齟齬を生じる面があり、この点についても客観的に見ていないと判断せざるを得ない。たとえば、説明の内容について、今日的解釈が加えられている。または誤解している。名称についても誤りがある。

・その後、山口登は大島組への上納金をやめたため、昭和4年(1929年)1月に、大島秀吉から破門された。 ・跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五郎の仲人で行われた。 ・そして、昭和15年(1940年)8月2日、山口登は東京浅草田島町浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分中島武雄を連れていた。

まず、博徒団体に上納金などという名称はない。相続盃と披露宴の順逆は見過ごせるとして仲人という人もいない。ちなみに大島ではなく、大嶋である。広沢虎造もできれば寅としてもらいたい。浪花屋金蔵宅とあるが、事務所でありこの辺りについても当時の書籍を真剣にあたっていただきたい。

多くあるため、これ以上あげる点は遠慮したいが、まず「美しい任侠」の歴史を守るように留意しては頂けないだろうか? 水雷久 2007年1月23日 (火) 23:02 (UTC)[返信]