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'''三木 恢'''(みき ひろむ、[[1938年]](昭和13年) - [[1961年]](昭和36年)[[10月31日]])は、[[新宿]]で殺された[[不良少年]] |
'''三木 恢'''(みき ひろむ、[[1938年]](昭和13年) - [[1961年]](昭和36年)[[10月31日]])は、[[新宿]]で殺された[[不良少年]]。 |
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以下、[[藤田五郎 (小説家)|藤田五郎]]の「新宿やくざ者」より。 |
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1938年、[[炭鉱]]経営者の子として[[朝鮮]]に生まれる。[[中野区]]鷺宮で[[小学校]]、[[中学校]]と[[柔道]]に熱中したヤンチャ坊主だった。[[東京都立石神井高等学校|石神井高校]]1年の時に不良グループ同士の喧嘩で中退、[[京王商業高校]]に転入。この頃、仲間と新宿に出かけては遊んでいた。 |
1938年、[[炭鉱]]経営者の子として[[朝鮮]]に生まれる。[[中野区]]鷺宮で[[小学校]]、[[中学校]]と[[柔道]]に熱中したヤンチャ坊主だった。[[東京都立石神井高等学校|石神井高校]]1年の時に不良グループ同士の喧嘩で中退、[[京王商業高校]]に転入。この頃、仲間と新宿に出かけては遊んでいた。 |
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ホトケの陳こと陳八芳([[中国拳法]]の達人)や藤田五郎ら本職のヤクザ者と出会った時、三木はまだ17歳の誕生日を迎えていなかった。陳は自己矛盾を抱えながら無職渡世を生きるタイプであり、[[チンピラ]]にしめられていた三木の舎弟を助けた陳は「俺もあいつらチンピラも仁義という名に隠れているダニだ。痛いと思ったら真面目になれ」と忠告している。また人斬りと呼ばれ他人の恨みを買って生きていた藤田は、不良でありながら屈託のなく伸びやかな三木の笑顔と声は後々まで心に残ったとしている。 |
ホトケの陳こと陳八芳([[中国拳法]]の達人)や藤田五郎ら本職のヤクザ者と出会った時、三木はまだ17歳の誕生日を迎えていなかった。陳は自己矛盾を抱えながら無職渡世を生きるタイプであり、[[チンピラ]]にしめられていた三木の舎弟を助けた陳は「俺もあいつらチンピラも仁義という名に隠れているダニだ。痛いと思ったら真面目になれ」と忠告している。また人斬りと呼ばれ他人の恨みを買って生きていた藤田は、不良でありながら屈託のなく伸びやかな三木の笑顔と声は後々まで心に残ったとしている。 |
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三木は大人たちとも付き合いを始めていたが、あくまで己の力だけで巷の暴力の世界で |
三木は大人たちとも付き合いを始めていたが、あくまで己の力だけで巷の暴力の世界で[[歌舞伎町]]の不良グループを倒していく既存のやくざ組織にとって目障りだがあくまでジャリの集団として無視していた。の思惑三木グループは勢力を拡大[[愚連隊]]の各派閥の頭目たちを集めて[[1956年]]頃に「[[三声会]]」として旗揚げを行うまで地盤を固め。後見として陳と藤田が面倒を見ているが「ジャリの大将」「少年番長」と冷ややかな視線を送っている。 |
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新宿で数千とも謂われる三木の舎弟たち |
新宿で数千とも謂われる三木の舎弟たち連日の乱闘事件を起こす一方で飲食店の用心棒代の徴発や賭博場の運営にも手を染め[[江ノ島]]で「海の家」をはじめている。先[[湘南]]でも乱闘騒ぎを起こ三木グループ警察のた���り調べにあたった刑事が「三木はしっかりした男だ」とを誉めたという話も残っている。 |
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三声会のあまりの放埓ぶりに上部団体とされる[[東声会]]内部にも“三木を切れ”という声が上がり1959年頃には東声会が三木グループの解散指示したとされる。四面楚歌の状況でもグループの活動は止まることを知らなかったが、1961年10月31日に新宿の[[深夜喫茶]]「スワン」で敵対する[[港会]]の会員に陳八芳とともに撃たれ死亡。 |
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周囲の忠告に耳を貸さず三木を応援した藤田は、時に三木を殴りつけながらも彼の純情さを愛したとされ、獄中で三木の訃報を聞いた時には男泣きに泣いたという。 |
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==参考図書== |
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2006年7月21日 (金) 08:35時点における版
三木 恢(みき ひろむ、1938年(昭和13年) - 1961年(昭和36年)10月31日)は、新宿で殺された不良少年。
以下、藤田五郎の「新宿やくざ者」より。
略歴
1938年、炭鉱経営者の子として朝鮮に生まれる。中野区鷺宮で小学校、中学校と柔道に熱中したヤンチャ坊主だった。石神井高校1年の時に不良グループ同士の喧嘩で中退、京王商業高校に転入。この頃、仲間と新宿に出かけては遊んでいた。三木が生来持っていた「仲間」を大切にする人間性は大きな輪を広げていく。
ホトケの陳こと陳八芳(中国拳法の達人)や藤田五郎ら本職のヤクザ者と出会った時、三木はまだ17歳の誕生日を迎えていなかった。陳は自己矛盾を抱えながら無職渡世を生きるタイプであり、チンピラにしめられていた三木の舎弟を助けた陳は「俺もあいつらチンピラも仁義という名に隠れているダニだ。痛いと思ったら真面目になれ」と忠告している。また人斬りと呼ばれ他人の恨みを買って生きていた藤田は、不良でありながら屈託のなく伸びやかな三木の笑顔と声は後々まで心に残ったとしている。
三木は大人たちとも付き合いを始めていたが、あくまで己の力だけで巷の暴力の世界に飛び込んでいく。歌舞伎町周辺の不良グループを倒していく三木は既存のやくざ組織にとって目障りな存在だが、あくまでジャ���の集団として無視していた。周囲の思惑を超えて三木グループは勢力を拡大、愚連隊の各派閥の頭目たちを集めて1956年頃には「三声会」として旗揚げを行うまで地盤を固める。後見として陳と藤田が面倒を見ているがプロの世界からは「ジャリの大将」「少年番長」と冷ややかな視線を送っている。
新宿では数千とも謂われる三木の舎弟たち誕生しており、連日の乱闘事件を起こす一方で飲食店の用心棒代の徴発や賭博場の運営にも手を染め、江ノ島では「海の家」をはじめている。遠征先の湘南でも乱闘騒ぎを起こす三木グループは警察の目の仇とされた。但し、逮捕された三木の取り調べにあたった刑事が「(三木は)しっかりした男だ」とを誉めたという話も残っている。
新聞や週刊誌も三木を取り上げ「ここが○○の縄張り?そんなもの法律にあるわけじゃなし俺達が来てどこが悪い」とインタビューで発言している。三声会のあまりの放埓ぶりに上部団体とされる東声会内部にも“三木を切れ”という声が上がり1959年頃には東声会が三木グループの解散を指示したとされる。四面楚歌の状況でもグループの活動は止まることを知らなかったが、1961年10月31日に新宿の深夜喫茶「スワン」で敵対する港会の会員に陳八芳とともに撃たれ死亡。行年23。
備考
周囲の忠告に耳を貸さず三木を応援した藤田は、時に三木を殴りつけながらも彼の純情さを愛したとされ、獄中で三木の訃報を聞いた時には男泣きに泣いたという。
参考図書
- 藤田五郎『新宿やくざ者』
- 鈴木智彦『日本アウトロー烈伝 伝説のヤクザたち』