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'''南京大虐殺'''('''なんきんだいぎゃくさつ''')は、[[日中戦争]]の初期[[1937年]]に[[旧日本軍]]が[[中国]]の首都[[南京]]市を占領した際に、約二ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に殺したとされる事件。
'''南京大虐殺'''('''なんきんだいぎゃくさつ''')は、[[日中戦争]]の初期[[1937年]]に[[旧日本軍]]が[[中国]]の首都[[南京]]市を占領した際に、約二ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に殺した事件。
中国では'''南京大屠殺'''と呼び、欧米では(Nanking Atrocities)あるいは(Rape of Nanking)と呼ぶ。[[日本]]では単に'''南京虐殺'''・'''南京事件'''とも呼ばれる。[[南京事件]]という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使��れる。
中国では'''南京大屠殺'''と呼び、欧米では(Nanking Atrocities)あるいは(Rape of Nanking)と呼ぶ。[[日本]]では単に'''南京虐殺'''・'''南京事件'''とも呼ばれる。[[南京事件]]という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。

殺害数は不明であるが、日本の研究者らは数万人程度と考える人が多く、海外では数十万と捉える研究者が多い。また日本の保守主義者は数百~千人規模、或は虐殺自体、存在しないとしている。


事件の背景として、南京大虐殺の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたことがあるとされる。
事件の背景として、南京大虐殺の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたことがあるとされる。


この戦争犯罪としての責任を問われ、[[極東国際軍事裁判]]では、事件当時中支那方面軍の司令官であった松井石根大将が起訴され死刑となった。中国では南京で戦犯裁判軍事法廷で第6師団長の谷寿夫中将が起訴され死刑となった。松井大将は自ら抗弁しなかったが、谷寿夫中将は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり自分の第6師団は無関係と申し立てている。
この戦争犯罪としての責任を問われ、[[極東国際軍事裁判]]では、事件当時中支那方面軍の司令官であった松井石根大将が起訴され死刑となった。中国では南京で戦犯裁判軍事法廷で第6師団長の谷寿夫中将が起訴され死刑となった。松井大将は自ら抗弁しなかったが、谷寿夫中将は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり自分の第6師団は無関係と申し立てている。


== 事件の概要 ==
== 事件の概要 ==
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一般の日本人及び中国人が虐殺事件を知るようになったのは、[[1946年]](昭和21年)[[5月3日]]から始まった[[極東国際軍事裁判]](通称 東京裁判)に於いてである。この裁判では方面軍司令官だった[[松井石根]](まついいわね)が、不法行為の防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして[[A級戦犯]]として訴追されて絞首刑となった。しかしながら最高責任者である上海派遣軍司令官[[朝香宮鳩彦王]]については訴追すらされていない。
一般の日本人及び中国人が虐殺事件を知るようになったのは、[[1946年]](昭和21年)[[5月3日]]から始まった[[極東国際軍事裁判]](通称 東京裁判)に於いてである。この裁判では方面軍司令官だった[[松井石根]](まついいわね)が、不法行為の防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして[[A級戦犯]]として訴追されて絞首刑となった。しかしながら最高責任者である上海派遣軍司令官[[朝香宮鳩彦王]]については訴追すらされていない。


なお、[[南京大虐殺]]については、事実の存否や規模などにおいて今なお[[南京大虐殺論争|論争]]が続いている。
なお、[[南京大虐殺]]については、事実の存否や規模などにおいて今なお[[南京大虐殺論争|論争]]が続いている。


== 南京陥落までの状況 ==
== 南京陥落までの状況 ==
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リンク集へのリンク集を中心に
リンク集へのリンク集を中心に
* [http://en.wikipedia.org/wiki/Nanjing_Massacre ウィキペディア英語版]

* [http://www.history.gr.jp/nanking/link.html 南京事件外部リンク集] (否定派サイト内のものだが、双方の立場の代表的なところへリンク)
* [http://www.history.gr.jp/nanking/link.html 南京事件外部リンク集] (否定派サイト内のものだが、双方の立場の代表的なところへリンク)
* [http://www2u.biglobe.ne.jp/~sus/ プロパガンダ写真研究所] (なぜか上のリンク集から漏れているので)
* [http://www2u.biglobe.ne.jp/~sus/ プロパガンダ写真研究所] (なぜか上のリンク集から漏れているので)

2004年8月3日 (火) 23:39時点における版


南京大虐殺なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争の初期1937年旧日本軍中国の首都南京市を占領した際に、約二ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺した事件。 中国では南京大屠殺と呼び、欧米では(Nanking Atrocities)あるいは(Rape of Nanking)と呼ぶ。日本では単に南京虐殺南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われるが、「事件」という言い換えで虐殺を軽視・隠蔽しようとする意図があると中国側から非難されている。

殺害数は不明であるが、日本の研究者らは数万人程度と考える人が多く、海外では数十万と捉える研究者が多い。また日本の保守主義者は数百~千人規模、或は虐殺自体、存在しないとしている。

事件の背景として、南京大虐殺の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたことがあるとされる。


事件の概要

日本軍は12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたり、南京城の城内・城外の掃討を行った。城内は主に第16師団(中島師団長)が掃討を行った。その際に南京市民や中華民国軍捕虜を相当数を不法に殺害し、また同時に、非武装の兵士や市民に対する殺戮だけでなく、掠奪や放火、強姦が多発した。

 当時の中国政府が、この事件を公式に非難したという記録は無いと言われていたが、中国が国際連盟で上海事変以降の日本軍の暴行を訴えた記録が発見された。

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官の間で伝わっており(前者の代表的な例としては岡村寧次陸軍中将関係の記録が、後者の代表的な例としては石井猪太郎外務省欧亜局長の日記が、夫々挙げられる)、日本の民衆の間でも流言蜚語としてひろまっていた(流言の伝わるルートとしては軍人が戦地から内地に当てた手紙が挙げられる)。また、日本の外へ目を向けてみると、欧米ではシカゴ・デイリーニューズニューヨークタイムズ、中国では大公報などのマスコミによって“The Rape of Nanking”(南京レイプ)、“ Nanking Atrocities”としてリアルタイムで報道されていた。


一般の日本人及び中国人が虐殺事件を知るようになったのは、1946年(昭和21年)5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称 東京裁判)に於いてである。この裁判では方面軍司令官だった松井石根(まついいわね)が、不法行為の防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとしてA級戦犯として訴追されて絞首刑となった。しかしながら最高責任者である上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王については訴追すらされていない。→天皇の戦争責任

なお、南京大虐殺については、事実の存否や規模などにおいて今なお論争が続いている。主なものとして、「南京の人口25万以上の死者が出たはずがない」という意見があるが、それに対して「当時の南京は戦災避難者で百万に人口が膨れ上がっていた」とする反論がある。また「事件を記録した史料が存在しない」とする意見もあり、それに対して「NYタイムズ」記事やドイツ人の手記が提示されたが、否定派は「全てウソだらけで信用できない」としている。

南京陥落までの状況

日本側

1937年(昭和12年)11月、第2次上海事件に投入された上海派遣軍と第十軍は、上海で中国軍をうち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無視して首都南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針無視を追認する形で、中支那方面軍(上海派遣軍と第十軍)に対し南京攻略命令を下達する。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官松井石根大将は、中国軍に対し開城を勧告する。
中国軍は、開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は攻撃を開始し、12月13日に南京城を陥落させた。

中国(中華民国)側

1937年11月5日、上海防衛に当たっていた中国軍は、杭州湾に上陸した日本軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却する。11月15~18日、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まる。11月20日、蒋介石は、南京防衛司令官に唐生智を任命する。同時に、重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始める。11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破される。南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れる。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令する。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出す。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城壁は突破され、中国軍は総崩れとなる。

中支那方面軍の編成

 中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。
 南京攻略時の主な部隊を示した。
 攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

中支那方面軍
司令官 松井石根(陸軍大将)
上海派遣軍司令官 朝香宮鳩彦(陸軍中将)
第3師団先遣隊 連隊長 鷹森 孝(大佐)
第9師団 師団長 吉住良輔(中将)
第16師団 師団長 中島今朝吾(中将)
山田支隊(第13師団の一部) 歩兵103旅団長 山田栴二(少将)
第10軍 司令官 柳川平助(陸軍中将)
第6師団 師団長 谷 寿夫(中将)
第18師団 師団長 牛島 貞雄(中将)
第114師団 師団長 末松茂治(中将)
国崎支隊(第5師団歩兵第9旅団) 支隊長 国崎 登(少将)

南京大虐殺を描いた作品

関連項目

外部リンク

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