高陽郡(こうよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋代にかけて、現在の河北省保定市一帯に設置された。
265年(泰始元年)、司馬珪が高陽王に封じられ[1]、涿郡を分割して高陽国が立てられた。晋の高陽国は冀州に属し、博陸・高陽・北新城・蠡吾の4県を管轄した[2]。
北魏に入ると、高陽郡と改められた。400年(天興3年)、高陽郡は定州に転属した。487年(太和11年)、高陽郡は定州から瀛州に転属した。北魏の高陽郡は高陽・博野・蠡吾・易・扶輿・新城・楽郷・永寧・清苑の9県を管轄した[3]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、高陽郡は廃止されて、瀛州に編入された[4]。613年(大業9年)、博陵郡が高陽郡と改められた[5]。
621年(武徳4年)、唐により高陽郡は定州と改められた[6]。
南朝宋のとき、高陽郡は冀州に属し、安平・饒陽・鄴・高陽・新城の5県を管轄した[7]。