飲食店

日本の食品等事業者の一種

飲食店(いんしょくてん)は、調理した食品料理)や飲料を、その店内で客に飲食させるの総称である[1]。提供する料理・飲料の種類、営業スタイルは多様である。レストランファミリーレストランファストフード店、さらには喫茶店寿司店ラーメン店居酒屋などを幅広い業態を含む。

ホテルイタリア料理店Via Sophia(Hamilton Hotel米国ワシントンDC

店内で飲食してもらうだけでなく、出前テイクアウト(持ち帰り)に対応している飲食店もある。逆に、小売り店が買った商品を店内で飲食できるようにしている場合もあり、日本コンビニエンスストアスーパーマーケットではイートイン、酒販店では角打ちと呼ばれる。

チェーン店を中心に、飲食店は産業としては外食産業に分類される。

種類

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飲食店は細分化されている。後述の「産業分類」や「Category:飲食店」も参照。

産業分類

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日本標準産業分類では「中分類76-飲食店」に分類される[2]。かつては「一般食堂」などの分類が用いられたが2007年(平成19年)11月の改定により再編された[3]

日本標準産業分類の事業区分では、「中分類76-飲食店」以下、次のようになっている[2]

飲食店と法規

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日本の法律では飲食店は食品衛生法第3条における「食品等事業者」の一種にあたる。同法は「食品等事業者」を「食品もしくは添加物を採取し、製造し、輸入し、加工し、調理し、貯蔵し、運搬し、もしくは販売することもしくは器具もしくは容器包装を製造し、輸入し、もしくは販売することを営む人もしくは法人または学校、病院その他の施設において継続的に不特定もしくは多数の者に食品を供与する人もしくは法人をいう。」と定義している。

飲食店を営業するためには、食品衛生法第55条の規定により、都道府県知事の許可(窓口は保健所)を受けなければならない。

ライブハウスは「興行場」として営業すると興行場法による規制が厳しいことから、より許可されやすい飲食店として届け出ている例も多い[4]

歴史

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古代ギリシャ・ローマ世界にあったテルモポリウムのカウンター

古代ギリシャ・ローマ世界にはテルモポリウム、すなわち「温かい食物を提供する場所」という名で呼ばれていた飲食店があった。 ヘルクラネウムの遺跡にはや大鍋をはめ込んだ石造りのカウンターを備えた飲食店が残されている。ポンペイ(紀元前5世紀頃 - 紀元後の79年)の遺跡にもカウンターを備えた飲食店が残り、瓶などの容器に残された成分の分析により、豚肉牛肉エスカルゴの料理が提供さ��ていたことが判っており、カウンター前面の絵がメニューだとすると鶏肉料理も提供していた可能性がある[5]

旅人に眠る場所を提供する宿屋も、通常は飲食店のルーツの一つとして言及される。宿屋が旅人に料理を提供することは古代から自然なことだった。宿屋が宿泊客に加えて通りがかりの旅人にも料理を提供すればその客から見れば飲食店であり、宿屋と飲食店の境界は曖昧だった。また昔は飲食店が客に宿泊場所の提供を始めることもあり、たとえば日本の茶屋のニ階は落ち着いて飲食できる場所として用意されたが、その個室は男女が逢引できる場所ともなり、簡易的な宿泊場所としても機能した。すなわち飲食店が副業的に宿泊場所の提供を始めることは昔は自然なことであったので、その意味でも境界は曖昧であった。「- 茶屋」という名の旅館があるのも、中国語の「飯店」や「酒店」がホテルを意味するのも、両者の境界が曖昧だった歴史の名残である。

室町時代の絵には寺社の門前で茶や食を提供する簡素な茶屋とその職人の姿が描かれており、室町時代に茶屋が誕生したとも言われる[6]。『洛中洛外図屏風』の中には「一服一銭」の茶売り人の姿も描かれ、寺社の門前にござを敷き、そこに炉をかまえて茶を点て、お代を受け取り、あるいは茶釜と水桶をてんびん棒で持ち歩き売り歩く様子が描かれている。東寺の南大門前は多くの参詣客で賑わい、それを目当てに茶売り人も集まってきたらしく、東寺百合文書にはその商売の様子が書かれている[7]

なお京の紫野の今宮神社の参道には、それより遡る平安時代後期、西暦1000年長保2年)に創業したとされる「一和」(いちわ)があり、当時からきなこをまぶして炭火で焼いたものを提供していたようである[8]宇治橋近くには1160年(永暦元年)創業の茶屋「通圓」(つうえん)がある[9]

 
深大寺そばの店

現代でいう飲食店は、江戸時代には細分化して発展した。江戸では明暦の大火(明暦3年、1657年)後、市街復興のために集まってきた労働者を対象とした煮売屋が発生。そこから、手軽にを楽しむことのできる居酒屋も派生。井原西鶴の『西鶴置土産』によれば、明暦3年に浅草金竜山で「奈良茶」という茶飯豆腐汁、煮しめ煮豆のセットメニューを食べさせる店も登場し、江戸の人々はもの珍しさから競ってそれを食べに行ったらしい。このころ「けんどん屋」などと呼ばれ「けんどん蕎麦切り[10]」を食べさせるそば屋・うどん屋も登場。1767年-1786年明和4年 - 天明6年)の田沼時代には江戸の飲食店は本格的に開花し、諸江戸屋敷に勤める留守居役や上層町人などを顧客とした高級料亭も多数できた。うなぎ屋、寿司屋など庶民が好む店も誕生。一部の人は「ももんじ屋」で獣肉を食すことを愛好した。1801年には浅草駒形浅草寺の参詣ルートに現代まで続く「駒形どぜう」が創業し、どぜうなべ、どぜう汁を提供してきた[11]

出典

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  1. ^ コトバンク飲食店
  2. ^ a b 大分類M-宿泊業,飲食サービス業” (PDF). 総務省. 2020年11月6日閲覧。
  3. ^ 平成23年表における飲食サービス関連部門の設定について” (PDF). 総務省. 2020年11月6日閲覧。
  4. ^ ライブハウス、法律上は「飲食店」 1ドリンク制をめぐる誤解を弁護士が斬る”. 弁護士ドットコム. 2022年12月29日閲覧。
  5. ^ 「古代ローマの飲食店」”. にゃこめしの食材博物記. 2024年7月4日閲覧。
  6. ^ 外食の始まり”. サンセイ. 2024年7月4日閲覧。
  7. ^ 「大変だった?茶店のはじまり その1」”. 東寺百合文書WEB. 2024年7月4日閲覧。
  8. ^ 「創業千年、日本最古の茶店女将」”. リクナビ. 2024年7月5日閲覧。
  9. ^ 「創業永暦元年、平安時代末期から23代続く、日本で一番古い御茶屋」”. 宇治商工会議所. 2024年7月5日閲覧。
  10. ^ コトバンク「慳貪蕎麦切(読み)けんどんそばきり
  11. ^ 駒形どぜう公式サイト内「200余年の歴史」(2024年9月15日閲覧)

関連項目

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外部リンク

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