長沢資親
長澤 資親(ながさわ すけちか)は、江戸時代中期の高家旗本。藤原北家日野家庶流・外山光顕の次男。官位は従四位上・左少将、壱岐守。家紋は鶴丸、子日松丸、五三桐。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 天和元年(1681年) |
死没 | 寛延3年5月22日(1750年6月25日) |
改名 | 博宣(初名)→資親 |
別名 | 長澤資親、通称:茂丸、要人 |
戒名 | 日明 |
官位 | 従四位上・左少将、壱岐守 |
幕府 | 江戸幕府 高家旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重 |
氏族 | 藤原北家庶流外山家流長澤氏 |
父母 | 父:外山光顕 |
兄弟 | 外山光和、資親、豊岡光全 |
妻 | 正室:酒井重英養女 |
子 | 資祐、松下之郷室 |
略歴
編集元禄12年(1699年)閏9月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。蔵米300俵を賜り、寄合に所属する。同年11月9日、小姓並に召しだされて、11月28日には従五位下侍従・壱岐守に叙任する。後に従四位上にまで昇進し、左少将に任官する。また、蔵米を改めて武蔵国入間郡600石を与えられる。宝永4年(1707年)1月9日、相模国愛甲郡内500石を加えられるなどして、家領は1400石となる。
宝永6年(1709年)2月11日、高家職に就く。享保14年(1729年)3月28日、高家肝煎となる。延享4年(1747年)11月22日と寛延元年(1748年)12月10日の二度にわたって病気を理由に辞職を願うものの、許可されなかった。
寛延3年(1750年)5月22日、死去。享年70。
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