鈴村久
鈴村 久(すずむら ひさし、1939年10月15日 - )は愛知県出身のプロゴルファー。
Hisashi Suzumura | |
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基本情報 | |
名前 | 鈴村 久 |
生年月日 | 1939年10月15日(85歳) |
身長 | 168 cm (5 ft 6 in) |
体重 | 65 kg (143 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県 |
経歴 |
来歴
編集1962年にプロ入りし、1964年の日本プロでは2日目に当時49歳の大ベテラン戸田藤一郎と共に2位タイに付け、最終日には橘田規が最初の9ホールで39と崩れ、石井朝夫と共に首位に立つ[2]。橘田がすぐに追いつくと、鈴村は9番で痛恨のダブルボギーで3位に終わる[2]。
1965年の日本オープンでは橘田・内田繁・柳田勝司に次ぐと同時に藤井義将・陳清波( 中華民国)・安田春雄・杉原輝雄を抑えての6位に入り[3] [4]、1966年には長崎オープンで石井裕士・木本与・石井朝を抑えて優勝[5]。
1967年の中日クラウンズでは大会前に中村寅吉から指導を受け、初日に10番から13番にかけた4連続バーディを含む66をマークして単独2位に付ける[6]。2日目には好調なパットで68をマークし、通算6アンダー単独トップで終え、鈴村にとって初めてのトーナメントリーダーとなる[6]。3日目は1打差の通算5アンダーで石井冨士夫と共に2位タイに付けるが、最終日はビッグタイトルのプレッシャーからか、杉本英世と中村に挟まれて前日までのプレーができなかった[6]。1番のティショットを左の林に入れボギー、4、7番のショートでもバンカーに入れるなどしてボギーを連発[6]。それでもアウトを終えた鈴村は7アンダーで依然首位をキープしたが、11番でバーディを奪った謝永郁(中華民国)が追い詰める[6]。謝が18番でバーディパットを決めた時、鈴村は17番で絶対に入れてはいけない左の深いバンカーへ落として無念のボギーとなる[6]。結局この1打が勝負の明暗を分け、この日65をマークした謝の逆転優勝[6]を許す2位と涙を飲んだ。
1968年の中日クラウンズでは、2日目に佐藤精一・石井裕と共に首位の安田を2打差で追う3位に付け、3日目には安田と共に正確なショットで手堅くスコアをまとめ、安田と1打差の2位へと順位を上げた[7]。最終日は安田がミスをしてもすぐに取り返す気迫のプレーを展開し、鈴村も同様にしぶといゴルフでスコアを崩すことなく、互いに一歩も譲らぬ接戦を演じる[7]。安田が鈴村を1打リードして迎えた18番、安田が第1打を林に打ち込み痛恨のボギーとなり、鈴村は手堅くパーセーブして土壇場で追いつき、共にトータル2アンダーでホールアウトする[7]。優勝の行方は、10、17、18番の3ホールで争われるプレーオフにもつれ込んだ[7]。最初の10番、鈴村が1mに付けバーディパットを決めると、安田が1メートル半を外してパー。勝負が見えたかに思えたが、3ホール目の18番で安田がバーディを奪い返し、1番から1ホールごとの結果で勝敗を決めるサドンデス方式のプレーオフに突入[7]。1番ホールに舞台を移してからも、両者は全く互角の戦いを見せる。5番で鈴村が第2打を右ラフへ入れてボギーを叩くも、安田も第2打を左奥の山へ打ち込んでボギー[7]。夕闇が迫る中、迎えた6番で安田は安定したショットで無難に2オンするが、鈴村は第1打をラフへ打ち込み、そこからの2打目をグリーン左の崖下に落してしまう[7]。3打目を松の枝に当てようやく4オン[7]したが、安田は2オン2パットのパーに収め、日本ゴルフ史上最長となる1時間40分、9ホールのプレーオフにようやく決着を見た[7]。鈴村は健闘空しく惜敗[7]し、2年連続2位に終わった。最後は当時28歳の鈴村と25歳の安田との体力差がくっきりと表れ、試合後に鈴村は「疲れた」と口にしたほか、あまりの長さに「両方優勝にしてやれ!」とギャラリーが声を出すほどであった[8]。
1970年の日本プロでは初日に6アンダー、66をマークして首位に立ち、2日目も快調なプレーを見せていたが、終盤に急ブレーキがかかりパープレーの72と落とす[9]。最終日には第3ラウンド終了時に橘田光弘に並ばれ、杉本・安田、陳健忠(中華民国)、青木功・矢部昭と共に7位タイに終わる[9]。
1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[10]に出場し、鈴村照男とペアを組んだダブルスで2日目に石井裕&石井冨ペアと並んでの3位タイ[11]に浮上。3日目には吉川一雄&鈴木規夫ペアと並んでの4位タイ[12]とし、最終日には通算574で吉川&鈴木・鷹巣南雄&金井清一ペアを抑えて優勝[13] [14]。
1978年の中部オープンで井上幸一の2位に入り[15]、1980年の中部オープンで18年目にしてツアー初優勝を飾る[16]。
1981年のアジアサーキット・タイランドオープンでは泉川ピートと並んでの10位タイ[17]、1985年の大京オープンでは優勝した金井清一と5打差、倉本昌弘・渡辺司と並んでの2位タイ[18]に入った。
主な優勝
編集レギュラー
編集- 1966年 - 長崎オープン
- 1975年 - クイリマ&タカヤマ・クラシック(ダブルス、鈴村照とのペア)
- 1980年 - 中部オープン
シニア
編集- 1989年 - 第一生命カップ・秋
- 1990年 - '90緑営グループ杯シニア
- 1991年 - 五島昇メモリアルとうきゅうシニア
- 1992年 - アイスターカップ’92
- 1999年 - '99日本プログランドシニア
脚注
編集- ^ “鈴村 久選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年6月11日閲覧。
- ^ a b “第32回日本プロゴルフ選手権(1964年)”. www.golfdendou.jp. 2023年5月29日閲覧。
- ^ “第30回日本オープンゴルフ選手権(1965年)”. www.golfdendou.jp. 2023年10月14日閲覧。
- ^ “JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】”. www.jga.or.jp. 2023年10月14日閲覧。
- ^ “男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2023年6月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g “中日クラウンズの歴史”. hicbc.com. 2023年5月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “中日クラウンズの歴史”. hicbc.com. 2023年5月29日閲覧。
- ^ “祝殿堂入り!9ホールに及ぶサドンデスを制してのプロ初V 伝説のプレーオフ7連勝の始まりだった【名勝負ものがたり】”. www.golfpartner.co.jp. 2023年5月29日閲覧。
- ^ a b “第38回日本プロゴルフ選手権(1970年)”. www.golfdendou.jp. 2023年5月29日閲覧。
- ^ 佐藤朗「着陸の日まで ―尾崎将司とその時代」幻冬舎、2019年7月25日、ISBN 4344923766、p138。
- ^ 毎日新聞縮刷版p629 昭和50年1月26日朝刊15面
- ^ 朝日新聞縮刷版p737 昭和50年1月27日朝刊19面「村上が急追 首位に立つ クイリマ・ゴルフ第3日」
- ^ 毎日新聞縮刷版p677 昭和50年1月28日朝刊15面「村上"独走"優勝 クイリマ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p767 昭和50年1月28日朝刊17面「村上隆、4打差で優勝 クイリマ・ゴルフ ダブルスは鈴村組」
- ^ 朝日新聞縮刷版p538 昭和53年7月16日朝刊18面「井上が初栄冠 中部オープン」
- ^ “山下和宏が今週も上位で週末へ 過去の“最遅”初勝利はだれ?”. golfdigest.co.jp. 2023年5月29日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p322 昭和56年3月9日朝刊18面「羽川が2位 タイ・オープンゴルフ」
- ^ “大京オープン 1985 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年6月11日閲覧。
- ^ “鈴村 久選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年5月29日閲覧。