野村益三
野村 益三(の���ら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日[1] - 1959年(昭和34年)12月25日[1][2])は、明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。
野村益三 のむら ますぞう | |
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生年月日 | 1875年3月5日 |
没年月日 | 1959年12月25日(84歳没) |
出身校 | 東京帝国大学農学部修了 |
前職 | 教員 |
所属政党 | 研究会 |
称号 | 正三位 |
親族 | 父・野村靖(逓信大臣) |
在任期間 | 1911年7月10日 - 1946年4月13日 |
経歴
編集外務省出仕・野村靖の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1909年(明治42年)2月19日に子爵を襲爵した[1][3][4]。
東京帝国大学農学部を修了し、1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した[2]。
1905年(明治38年)和歌山県立粉河中学校教諭に就任[2]。以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任[2]。その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員[5]、文政審議会委員[6]、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた[2][3]。
1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7][8]、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月13日に辞職するまで五期在任した[2][9]。
栄典
編集著作
編集- 『学習院施設所見』野村益三、1925年。
- 『帝都を顧みて』日本学術普及会、1927年。
- 『東京見物』日本学術普及会、1928年。
- 『雞林十三道』文祥堂印刷所、1931年。
- 『水光』帝国水産会、1934年。
- 『山影 : 南洋・台湾・朝鮮』成美堂書店、1934年。
- 『伊勢参宮三都めぐり』帝都教育会、1934年。
- 『行雲』南洋水産協会、1937年。
- 『満洲より北支』帝国水産会、1941年。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 野村靖 |
子爵 野村(靖)家第2代 1909年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
その他の役職 | ||
先代 初代 |
防長倶楽部(防長会)理事長 初代:1923年 - 1953年 |
次代 佐々木義彦 |