西部戦線
西部戦線(せいぶせんせん, Western Front)とは、複数の戦線が存在する大規模な戦争において、西に位置する戦線の名称として用いられる。一般的には第一次世界大戦または第二次世界大戦において、フランス、ドイツおよびベネルクス三国に形成された前線をさす事が多い。(アメリカ独立戦争に関しては西部戦線 (アメリカ独立戦争)を、南北戦争に関しては西部戦線 (南北戦争)を参照のこと)
第一次世界大戦
編集第一次世界大戦においては、シュリーフェン・プランに基づいてフランス北西部に攻勢をかけたドイツ軍と、それを防ぎきったイギリス・フランス両軍によって4年間に亘る塹壕戦が展開された。数度に渡る戦闘によって数百万にも及ぶ死傷者が発生したが、機関銃の登場などによって防御側が圧倒的な有利にあった為戦線はほとんど変化しなかった。イギリス海峡に接するごく一部のみがベルギー領であった他は全てフランスの領土を横切っており、終戦時にもドイツの国土には戦火が及ばなかった。
平和時ならば社会の指導者層を形成するであろう、教育レベルの高い中流階級に属する青年の多くが戦場で死亡したため、戦後の社会に極めて大きな影響を及ぼす事になった。英仏両国の歴史に対しては、第二次世界大戦以上に大きな影響を与えたとされる。
第二次世界大戦
編集1939年に第二次世界大戦が開幕した当初は、先の大戦と同様の持久戦で争われると思われた。しかし翌年5月戦車の集団運用を中心にした電撃戦によってドイツ国防軍は英仏軍の前線を突破し、イギリス軍はブリテン島に撤退しフランスは降伏した。
日本の真珠湾攻撃が機となってアメリカ合衆国が参戦した後に、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相は東部戦線における負担を軽減するために西部戦線の再構築を米英首脳に求めた。これに基づいて1944年にノルマンディー上陸作戦が決行され、圧倒的な物量に支えられた米英両軍はフランス北部から戦線を左に旋回させドイツ国境を突破した。多くの連合国軍部隊がライン川を渡った後、1945年5月にドイツは降伏した。
他の地域から見た「西部戦線」
編集ロシアにおいては両次大戦における対ドイツ戦が「西部戦線」(Западный Фронт)と呼称される場合がある。一般的にはこの戦線は東部戦線として知られている。第二次世界大戦においてはウクライナが最も激しい戦場となった。ソ連政府は出身兵士の士気を高めるために、この戦線の名称を「ウクライナ戦線」または「白ロシア戦線」などと変更した。この地域での戦闘については独ソ戦を参照のこと。
関連項目
編集- 『西部戦線異状なし』:エーリヒ・マリア・レマルクの小説。第一次世界大戦時の作者の体験を基に作成されている。