虞昺
虞 昺(ぐ へい、生没年不詳)は、中国三国時代の呉・西晋の政治家。字は世文。揚州会稽郡余姚県の人。父は虞翻。兄弟は虞汜・虞忠・虞聳ら。
生涯
編集虞翻の11人の子のうち、8番目に当たる。若い時から俗事にこせこせせぬ大きな気概を備えていた。
呉に出仕して黄門郎となり、主君孫晧の下問に的確に答えることでその優れた才能が認められ、抜群の昇進をして尚書侍郎に任ぜられた。
太康の役の時に晋の軍が攻め寄せてきたとき、虞昺は持節をさずかり、武昌より上流地域の軍の総指揮にあたるべく派遣された。呉の軍が総崩れになったとき、虞昺は節と蓋と印綬を呉の朝廷に奉還したあと、晋に降伏した。
呉が滅びた後、済陰太守となり、権力者たちの横暴をおさえ、弱い者たちの後ろ盾となって、彼の異名は人々の間に知れ渡った。兄の虞聳よりも先に亡くなったという[1]。
虞昺は天文学にも通じ、著書の『窮天論』では、「空の形をしたドームは笠のようであり、地表は浮いている空気の上にある。」と大気の状態を他の説よりも科学的に記載している。
家系図
編集虞光 | 虞成 | 虞鳳 | 虞歆 | 虞翻 | 虞汜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞忠 | 虞𩦎[ft 1] | 虞谷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞潭[ft 2] | 虞仡 | 虞嘯父 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞聳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞昺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞察[ft 3] | 虞喜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞預[ft 4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
編集脚注
編集- ^ 『会稽典録』