藤田 茂(ふじた しげる、1889年明治22年)9月17日[1][2] - 1980年昭和55年)4月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

略歴

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広島県出身[1][2][3]。陸軍大尉であった父の息子として生まれる[1]広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第17連隊付となる[1][4]

1921年(大正10年)4月、騎兵第24連隊中隊長に就任[1]陸軍騎兵学校教官、騎兵第13連隊付、同連隊中隊長、騎兵第1旅団副官を務め、1928年(昭和3年)8月、騎兵少佐に昇進[1]。1928年(昭和3年)9月、騎兵学校教導隊付となり、同校副官、騎兵集団副官、騎兵第20連隊留守隊長を務め、1935年(昭和10年)3月、騎兵大佐に昇進した[1][3]

1935年8月、皇族付武官(載仁親王付)となり、1938年(昭和13年)7月、騎兵第28連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1940年(昭和15年)3月、騎兵第15連隊長に転じ南京周辺の警備を担った[1][2][3]。1941年(昭和16年)7月、騎兵第2旅団長に就任し、同年10月、陸軍少将に進級した[1][2][3]。同年12月、浦和連隊区司令官に転じて帰国[1][2][3]。1944年(昭和19年)3月、日本陸軍最後の乗馬騎兵である騎兵第4旅団長に発令され帰徳に駐屯[1][2][3]。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み第59師団長に親補され咸興で終戦を迎えた[1][2][3]

その後、シベリア抑留となる[1]1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]。1950年(昭和25年)7月、撫順戦犯管理所に移され、1956年(昭和31年)6月、禁錮18年の有罪判決を受けた[1]。1957年(昭和32年)9月に釈放され、1958年(昭和33年)4月、舞鶴に上陸した[1]

1960年(昭和35年)10月から死去するまで中国帰還者連絡会会長を務めた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、138頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』635頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』298頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289、298頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。