蕭 鑠(しょう しゃく、470年 - 494年)は、南朝斉皇族。桂陽王。宣朗。高帝蕭道成の八男。

経歴

編集

蕭道成と袁修容のあいだの子として生まれた。昇明3年(479年)、蕭道成が斉王となると、蕭鑠は開国県公に封じられた。同年(建元元年)、蕭道成が皇帝に即位すると、蕭鑠は桂陽王に封じられた。永明2年(484年)10月、南徐州刺史として出向し、京口に駐屯した。永明7年(489年)、中書令に転じ、散騎常侍の位を加えられた。当時、鄱陽王蕭鏘が文章を好み、蕭鑠が名理を好んだので、「鄱桂」と併称された。永明10年(492年)、太常に転じた。

隆昌元年(494年)、前将軍の号を加えられた。同年(延興元年)7月、蕭昭文が即位すると、蕭鑠は侍中・撫軍将軍となった。9月、中軍将軍・開府儀同三司の位を受けた。10月、東府に宣城王蕭鸞を訪れて帰宅すると、蕭鸞が自分を害そうとしていることを察して、側近に漏らした。夜中に蕭鸞の派遣した兵がやってきて蕭鑠は殺害された。享年は25。

伝記資料

編集